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映像とものがたり

記憶の中にいる“あの人”は誰だったのか――『ある男』が映す人間の影

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私たちは本当に、他人のことを知っているのだろうか。

長く連れ添った家族であっても、日々顔を合わせる同僚であっても、その人がどこから来て、どんな過去を生きてきたのか、私たちは案外知らない。もしかすると、目の前にいるその人は、まったく別の人生を歩んできた“誰か”なのかもしれない。

映画『ある男』(2022年/石川慶監督)は、そんな不確かな「他者」への視線から始まり、やがて「自分とは何か」という問いへと観る者を導いていく。ある男の死をきっかけに浮かび上がる偽りの名前、消された過去、そして他人の戸籍を生きるという選択。その静謐で濃密な世界は、私たちの中にある「信じること」や「記憶の輪郭」を静かに揺さぶる。

“あの人”は誰だったのか――あらすじの輪郭

弁護士・城戸章良(妻夫木聡)のもとに、一人の女性が現れる。彼女の名は谷口里枝(安藤サクラ)。数年前に再婚した夫・谷口大祐が、山で事故死したという。死後の手続きを進める中で、彼の身元に違和感を抱いた里枝は、調査を依頼する。すると驚くべき事実が浮かび上がる。夫は“谷口大祐”という名で生きていたが、その名前は本来別人のものであり、彼の正体は誰にもわからない「なりすましの男」だったのだ。

城戸は男の素性を辿るうちに、やがて「戸籍交換」という闇の存在に行き着く。柄本明が演じるブローカーは、他人の名前と人生を買い取り、新たな“身元”を売り渡す人物だった。男はなぜ、他人の名を生きたのか。どこで、何を捨ててきたのか。過去を持たないその存在を追いかける旅は、やがて城戸自身の記憶や過去と、静かに重なりはじめる。

名前を捨て、名前に生きる

この作品では、“名前”が物語の鍵となる。それは単なるラベルではなく、過去を背負い、他者との関係性を編み出す象徴だ。「谷口大祐」という名前で生きた男は、かつて“誰か”として生きていた。その“誰か”を捨てるために名前を変えたのだとしたら、では新しい名前のもとで得た人生は偽りだったのか。

一方で、谷口里枝にとっては、その名前の真偽よりも「共に生きた日々」のほうが何よりも確かな記憶である。彼女にとって夫は、「過去のどこかから来た偽名の男」ではなく、「今を共に生きたかけがえのない存在」だったのだ。その姿勢は、ある種の真実への信頼を超えて、愛という感情の純粋なかたちを映している。

社会の裏側に潜む“影のシステム”

戸籍を交換するという行為がこの物語で象徴するのは、現代社会の裏側にひそむ“見えない許容”だ。私たちは法律や制度によってアイデンティティを定義される一方で、制度の隙間には必ず「名前を失った人」「過去を捨てざるを得なかった人」が存在する。

柄本明演じる戸籍ブローカーの存在は、まるでこの社会が見て見ぬふりをしてきた“影の論理”そのものである。偽名を選ばざるを得なかった理由の一端には、犯罪者の家族、家庭内暴力、差別、逃亡といった、現実に私たちが直面している問題の暗がりがある。彼らは何かから逃れようとしたのか、それとも新しい何かになりたかったのか。その問いは、観る者の内面に沈殿していく。

「ある男」――名を失った者の普遍性

この映画のタイトル『ある男』は、非常に匿名的である。にもかかわらず、それが示しているのは誰でもない「特定の人物」ではなく、名前を持たずとも誰かの記憶に残る“人間の影”のような存在だ。

彼は誰かだったが、今はもう誰でもない。けれど、彼を覚えている人がいる限り、その存在は消えない。記憶とは、過去と現在をつなぐ唯一の道標であり、その道標を持ち寄ることで、私たちは他者を“知ろう”とすることができるのかもしれない。

映像の詩学――静寂と沈黙の語り

監督・石川慶の演出は、終始抑制が利いている。激しい感情の爆発はほとんどなく、登場人物たちはどこか静かに傷を抱えている。カメラは彼らを遠くから見つめ、時に寄り添うように、その揺らぎを丁寧に掬い取る。

特に印象的なのは、山の風景や木漏れ日のような自然光の使い方だ。人物の内面を言葉ではなく「光と影」で語るような描写が多く、静謐で文学的な佇まいがこの作品に深い余韻をもたらしている。

音楽はCicadaによるもので、控えめでありながら感情の揺らぎを細やかに支える。映像と音が溶け合うことで、観る者の心に深く染み入る感覚がある。

「記憶のなかの他者」と「自分自身」

映画が進むにつれて、観客はだんだんと気づく。「彼は誰だったのか」という問いは、「私は誰なのか」という問いに反転していく。人は他者を知ろうとするとき、自分自身の輪郭もまた浮かび上がるからだ。

城戸章良という弁護士もまた、自分の過去と向き合うことになる。自身の生い立ち、かつての罪、償い、家族との関係。それらは“ある男”の過去と交差し、どこかで自らの内面と接続する。人は他者を通して、自らの傷や罪を見つめる存在なのだと、この作品は静かに示している。

終わりに――誰かの記憶に残るということ

『ある男』は、謎解きの物語であると同時に、愛と赦しの物語でもある。真実を知ることがすべてではない。むしろ、知ることのできない“欠けた部分”を抱えながら、なおも誰かを想い続けること。その行為のなかにこそ、人間らしさが宿るのだろう。

名前を捨てた男。名を失っても、確かに誰かの心に生きた男。その存在は、スクリーンの外にいる私たち一人ひとりの中にも、重なる影のように息づいている。

ある男
出典:Amazon

作品情報

監督:石川慶
脚本:向井康介
原作:平野啓一郎
出演者:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、坂元愛登、山口美也子、仲野太賀、真木よう子、柄本明 ほか
製作国:日本
製作年:2022年
配給:松竹
劇場公開日:2022年11月18日

Blu-ray/DVD ほか

VOD(ビデオ・オン・デマンド)

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