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『文章読本』谷崎潤一郎 ‐ 日本語の本質を説く【書評】

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この記事では、谷崎潤一郎氏の『文章読本』について、その内容を掘り下げていきます。

文章読本 谷崎潤一郎・著

文章読本(谷崎潤一郎, 中公文庫)の表紙
出典:Amazon

書誌情報

書名:文章読本
著者:谷崎潤一郎
出版社:中央公論新社
発売年月:単行本(中央公論社) 1934年11月, 中公文庫 1975年1月, 中公文庫改版1996年2月
ページ数:中公文庫改版 256ページ
Cコード:C1195

日本語の本質を説く

谷崎潤一郎氏(1886-1965)の『文章読本』は、昭和9年(1934)に中央公論社から書き下ろし単行本として刊行され、ベストセラーになった。以後多くの同名の本や類書が発売されている。後発の、他の作家が書いた文章読本と読み比べるのも面白い。

谷崎氏の『文章読本』は、日本語の本質を説いており、80年以上経っても色褪せない。今読んでも学ぶべきことが多く、今後の参考にもなる。時代背景が変わっても、価値ある文章読本である。

本書は、「文章とは何か」「文章の上達法」「文章の要素」の3つに大きく章分けされている。勉強になることが一冊に詰まっていて、アウトプットすべきことは多い。簡単に要約できるような内容ではないが、とりあえずまとめながら、感想を書いた。

文章に実用と芸術の区別はない。文章の必要性は、自分の言いたいことを、できるだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにある。実用的な文章はすぐれた文章である。この事は、手紙でも小説でも同様だ。

ただし韻文と散文とに分ける場合は別である。韻文は詩や歌のこと。韻文は、心の中にあることを伝達するのみでなく、詠嘆の情を籠めて作る。謡いやすいように字数や音数を定めるので、文章の一種であっても、普通の文章とは多少目的が違う。

実用的ではなく芸術的な文章があるとすれば、韻文があたる。本書で述べられているのは、もちろん散文のことである。ただし韻文の知識もまた、散文的な文章の上達に役立つ。

韻文でなければ、芸術的な目的があっても、実用的に書いた方がよい。明治時代には、漢語を連ね、語調のよい、綺麗な文字を使った美文体の文章がもてはやされた。だが、今日はそういう時代ではない。

韻文や美文では、分からせること以外にも、眼で見て美しいことと耳で聞いて快いことが必要条件であった。現代の口語文では、分からせることに重きを置く。現代の世相は、ますます複雑になり、分からせるように書くということで、手一杯なのである。口語に近い文体では、俗語でも、新語でも、外国語でも使う。

小説は文章をもって表す芸術である。しかし芸術というものは、生活を離れて存在するのではなく、生活と密接な関係がある。小説に使う文章は、実際に即したものでなければならないし、特別な書き方があるわけでもない。

小説に使う文章と、いわゆる実用に使う文章は、文章の習得においてお互いに役立つ存在だ。実用的に書くことは、芸術的な手腕であり、容易にできることではない。簡単な言葉で明瞭に物を描き出す小説家の技術は、実用の文章においても役立つ。実用文においても、技巧があった方がよいのだ。

ただし、分からせることには限界がある。言語は万能なものではない。言語は万能という考えは、大きな間違いである。口語体の文章ならどんなことでも分からせるように書けると考えてはいけない。

明治の末期から口語体という文体が創られた。しゃべる通りに書けばよいことになると、語彙を豊富にすれば表現できないことはないという先入観をもち、無闇に多くの言葉を使ってしまう。その結果、明治になってから、非常に多くの言葉が溢れ始めた。さまざまな名詞や形容詞ができ、外国語を翻訳した学術語や技術語が生まれ、続々と新語が造られている。

それらの沢山の語彙を駆使して取り入れると、文章が冗長になる。口語体ではなく文章体であれば、1行か2行で済むのに、5行にも6行にも書く。

言葉数を増やせば、分からせることができるかというと、そうではない。書く当人が述べつくしたつもりでも、読む方にとってはくどいばかりで、何を言っているのか分からない場合がある。

表現が自由な口語体の大きな欠点は、このように文章が長たらしくなることであろう。この口語体は、放漫を引き締め、できるだけ単純化する必要がある。

これは結局、古典文の精神にかえることでもある。文章のコツは、言葉や文字で表現できることと、できないことの限界を知り、その限界内に止まることが第一である。名文家はその心得を持っている。

分からせるように書くには、記憶させるように書く必要がある。字面の美と音調の美とは、読者の記憶を助け、理解を補う。言葉を使い過ぎるのは間違い。言葉の不完全なところを字面や音調で補ってこそ、立派な文章といえる。

現代の口語体は、字面と音調という感覚的要素が備わっていない。そのため口語文は朗読に適しないことがあるのだ。

古典文は、この感覚的要素を多分に備えている。古典文を研究して、その長所を学ぶ価値は大いにあるはずだ。

この意味において、和歌や俳句等も非常に参考になる。韻文は字面と音調に依っているのであるから、国文の粋と言え、散文を作る上にもその精神を取り入れるべきであろう。感覚的要素は、現代文においても大切な役割を果たす。

古典の研究と併せて、欧米の言語文章を研究し、長所を取り入れるのもよい。しかし言語学的に全く系統を異にする二国間の文章の間には、永久に越えられない垣根があることを忘れてはならない。却って固有の国語の機能まで破壊してしまう。取り入れ過ぎたことにより生じた混乱は整理しなければならない。

日本語の欠点の一つに、言葉の数が少ないという点がある。そのため漢語を使って無数の形容詞や副詞を作り、国語の語彙の乏しさを補ってきた。今日では、漢語だけでは間に合わなくなり、欧米の言葉をカタカナでそのまま日本語化したり、漢字を借りて翻訳したものを用いたりするようになった。

しかし総ての物事がよいことばかりではない。国語というのは国民性と切っても切れない。日本語の語彙が乏しいことは、必ずしも日本の文化が西洋や中国に劣っているということではないのだ。日本人の国民性が、おしゃべりではなく、アッサリしているため、国語もそのように発達したのかもしれない。

そのため、見本とされるような英文であっても、日本人が見事だと感じるとは限らないのだ。英語には英語のリズムがある。直訳しても、一向に頭に這入ってこない。日本文らしくしても、意味が辿れるだけのことである。

日本人は、科学、哲学、法律等の、学問を西洋から輸入してきたが、日本語の文章にするには困難が生じる。読むにも書くにも、日本語を使わずに原語で間に合わせることさえあるのだ。日本語の間に多くの原語を挟むようにもなった。

翻訳文は、外国語の素養のない者に必要だが、多少とも外国語の素養のない者には分かりにくいことがある。学者の論文などは外国語の素養のあることを前提に書かれていることさえあるのだ。

こういった文章は、分かりにくい悪文となってしまう。
専門の学術的な文章と、一般的、実用的な文章とは分けて考えるべきだ。

日本語には、西洋語にあるような、厳密で難しい文法はない。文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。文章の上達のために、文法に囚われなくてもよい。

国学者でもない限り、文法的に誤りのない文章を、完璧に書いている人は、なかなかいないであろう。日本語には明確な文法がないのだから、習得するのは困難だ。

科学的に教育される時代となった現代には、できるだけ科学的に、西洋流に偽装した、国文法が存在する。基準となるべき法則を設け、秩序を立てて教えた方が都合がよい。

こういった西洋流の国文法で文章が書けるようになったら、今度はあまり文法のことを考えずに、簡素な国文の形式にかえり、感覚を研くことを心がけるとよい。これは名文を書く秘訣の一つである。また各種各様の名文があることも知るべきであろう。

文章を学ぶには実習が第一である。理屈はあまり役に立たない。が、読本の趣意を立てるため、本書では文章の要素を6つに分けて論じている。

「用語」「調子」「文体」「体裁」「品格」「含蓄」の6つである。これは厳密な分け方ではなく、また互いに密接に関連している。そして「文体」「体裁」「品格」「含蓄」の4つに関しては、我が国の国文の特色であろう。

用語については、単語の選択のよしあしのことである。分かり易く、使い慣れた言葉から、最適な言葉を選ぶのがよい。

調子とは、いわゆる文章の音楽的要素である。これこそ感覚の問題といってよいであろう。文章における調子は、その人の精神の流動であり、リズムである。文章は人格の現れといわれるが、その人の体質、生理状態なども、文章の調子として現れる。

大体の種類として、「流麗な調子」「簡潔な調子」「冷静な調子」「飄逸な調子」「ゴツゴツした調子」を挙げている。作者の気質を大別すると、流麗な調子と簡潔な調子のどちらかになる。細分すると、幾つにも派生する。ただし冷静な調子に関しては、調子のない文章とも言い換えられるくらい、言葉の流れを感じにくい。

流麗な調子は、源氏物語派の文章があたる。和文調ともいえるであろう。これは、すらすらと水の流れるような調子。切れ目なく、全体が一つの文章として連続する。

簡潔な調子は、流麗な調子と正反対ともいえる文章である。一語一語の印象が鮮明に浮かび上がる。切れ目も、はっきり際立たせて書く。剛健なリズムがある。これは、非源氏物語派であり、漢文調でもある。

冷静な調子は、流れの停まったような文章である。形態の上では、流麗な調子に近かったり、簡潔な調子に近かったりするため分かりにくい。そしてよく読むと、全然流露感がないことが分かる。しかし流露感がないからといって、必ずしも悪文とは限らない。流れの停滞した名文もある。

冷静な調子は学者肌の人に多い文章だ。国学者らは、文法、言葉使い、修辞上の技巧など、いろいろと知っているので、流麗調も簡潔調も書ける。これも体質の問題であろう。名文を書く学者も多い。ただし書き方が悪いと、気持ちや精神的なものが、外に現れ出てこない。

偉大な哲学者の文章は、乾燥した輝きを帯びる。冷静な調子の文章だ。冷静派の名文家は、世の中のあらゆるものを、静止状態として再現する。芸術家でも、学者肌の人の作品にはそういう傾向がある。

飄逸な調子は、流麗な調子の変態として示されている。飄々として捉えどころがなく、技巧の上からは説明のしようがない。野心がなく、仙人のような心持で書く。心境にさえ達すれば、自らこの調子が出てくるのだ。

ゴツゴツした調子とは、簡潔な調子の一変化である。ゴツゴツ派の作家は、簡潔派の文章でもなお流暢に過ぎると思う。読者が一気に読んでしまうような文章ではなく、一語一語に深く意を留めてもらいたい。故意に読みづらく書くことさえある。七五調の文章などは調子ばかりで内容が空疎だと思うのであろう。

ゴツゴツした調子は、悪文だという感じを受けるが、本来の悪文とは異なり、魅力さえある。技巧的なものではなく、自然に書けるものであり、これも体質だ。

体質というのは生まれつきでもある。が、後天的にも変化する。判然と5種類のいずれかに属するというわけでもない。純粋に一方に属する作家は少なく、5種類が交じり合う。

一つの文章が、視覚を変えるごとに、ある時は流麗調のごとく、ある時は簡潔調のごとく、またある時は冷静調のごとくに感じさせるなら、まさに名文。3つの長所を具備しているなら稀な名文であり、天分の豊かなことを語っているといえよう。

文章の書き方を、言葉の流れとして論じたのが調子であるが、流れを一つの状態と見れば、文体といえる。文体は、調子を標準にして分けることもできる。その場合、流麗体、簡潔体、冷静体となる。

文体とは、文章の形態、もしくは姿。様式を標準にすれば、文章体、口語体、あるいは和文体、和漢混交体というふうに分けられる。今日一般に行われている文体は、口語体だけである。本書では、口語体を更に幾通りにかに細分し、「講義体」「兵語体」「口上体」「会話体」の4種類に分けた。会話体が、本当の口語文ということになるであろう。

体裁は、文章の視覚的要素の一切を指している。振り仮名、送り仮名、漢字及び仮名の宛て方、活字の形態、句読点などのことである。

品格は、礼儀作法のことである。公衆に向かって話しかけるのだから、一定の品位を保ち、礼儀を守らなければならない。本書では、饒舌を慎み、言葉使いを粗略にせず、敬語や尊称を疎かにしないこと等を挙げている。我々の国語の特色とも言えるであろう。文章にも、精神は発露するもの。品格ある文章を作るためには、精神を涵養することが第一である。

含蓄は、品格の項で説かれた、饒舌を慎むことが該当する。品格の項では、儀礼の方から見、含蓄の項では効果の方から論じている。谷崎氏は、この読本においての含蓄の一事を、甚だ大切な要素であると述べている。文章は、書き過ぎたり、無駄な形容詞や副詞が多くなったりすると悪文になってしまう。

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