この記事では、井上ひさしさんの『自家製 文章読本』について、その内容を詳しく紹介していきます。
自家製 文章読本 井上ひさし・著
書誌情報
書名:自家製 文章読本
著者:井上ひさし
出版社:新潮社
発売年月:単行本 1984年4月, 文庫本 1987年4月, 電子書籍 2013年12月
ページ数:文庫本 304ページ
ジャンル:文芸作品、評論・文学研究、言語学
Cコード C0081(日本語)
紙書籍
電子書籍
井上ひさしの『自家製 文章読本』の目次
幅広い文献を活用しながら持論を披露
本書が出版される以前から「文章読本」というタイトルの本が刊行されてきた。文学者が書いた過去の「文章読本」と比べると、本作では文学作品にとどまらず世の中のあらゆる文章を幅広く取り上げようとする傾向が強いように感じた。
文章についての文献、文学作品から広告文、新聞記事、さらには商用文や法律文なども引用しながら、井上ひさしさんの持論を披露した一冊である。
本書が単行本として上梓されたのは1984年。前置きとして「滑稽な冒険へ旅立つ前に」という章に書かれている内容は、意識すべきことなのであろう。
井上ひさしさんの著書『自家製 文章読本』の導入文「滑稽な冒険へ旅立つ前に」
井上ひさしさんの『自家製 文章読本』の書き出しは、「『文章読本』を編むことは、いまやほとんど不可能に近い」という文章。その理由として井上ひさしさんは、文学を取り巻く世間の在り方や、人類破滅の脅威となる核兵器の存在を挙げている。
井上さんは、本書の最初の章「滑稽な冒険へ旅立つ前に」において、「この時代では、過去と未来を結び付けようという試みのひとつである「文章読本」を編むなどは、どうしたって滑稽な冒険にならざるを得ないのである」という文章で締め括った。このようにして本書は始まり、次の章から本題に移る。
井上ひさしさんの『自家製 文章読本』の序盤の内容と特筆すべきこと
井上ひさしさんの『自家製 文章読本』の序盤において、印象に残ったこと。
井上ひさしさんのいう「ことばの列」とは
「ことばの列」の章は、文章・文体について。なお、文体については「形式と流儀」の章において、より具体的な話をされている。
文体という言葉は、いろいろな意味が勝手につけられたせいか、収拾がつかなくなってしまった。とくに日本では、漢字と仮名の併用により、議論がいっそう複雑になった。
本書では、著名人の論についての引用を交えて、さまざまなことが論じられている。そのうちの一人が、井上さんが国民学校に通っていときに知った、時枝誠記氏(1900-1967)。たとえば「言語表現あるいは言語芸術というものは時間的に展開していく」ものという論。
文学を言語芸術と説明することがあるが、文学は絵画や彫刻のように見ただけでは全体を掴めない。類似しているものは、時間の上に流れていく音楽。言語芸術は空間的なものではなく時間的なもの。このあたりに文体の正体を知る鍵が転がっているかもしれない、と井上さんは述べている。
フランスの哲学者アラン氏の著書『芸術論集』の中には、次のような箇所がある。「詩と雄弁はむしろ音楽に類し、散文はむしろ問われねば語らぬ建築・彫刻・絵画に類する」、と。
時枝氏とアラン氏の論の立て方は根本から違う。アラン氏は、おそらく芸術性について重きを置いているのではないだろうか。比較するのはほとんど無意味であるが、井上さんとしては時枝氏に軍配をあげたいとのこと。このようにして、本書では先達の論を引用しながら造詣を深めていく。
実用文も小説の文章も文法法則にもとづいて綴られることは共通している。大きな違いは、実用文にはそれぞれの形式があるということ。手紙文、報道文、広告文には、それぞれ固有の形式があり、修辞法がある。
また小説家なら、純文学作家か大衆小説作家かを問わず、野球の投手に投球フォームがあるように、自分の形式(フォーム)を持っている。そうでなければ短編ひとつ書けない。小説家は小説家としての文章形式を持ち、新聞記者は報道文の書き手としての文章形式を持つ。
作家を志すなら、たくさんの名作傑作を読んで小説作法を学び、やがて一篇の作品を完成させようとする。その人に文章形式がなければ、統一した調子を与えることはできない。
そして、自分の個性を生みだし、そのフォームを鍛えていかなければならない。なぜなら、他の作家の文章を手本、あるいは規範としている間は、真の文体はやってこないからだ。真の文体を獲得するのは、大袈裟に感じるかもしれないが、自分なりに人生の真実を発見した時。それにより、ただの形式(フォーム)が文体にまで高まる。
これらを踏まえて、次章「話すように書くな」に進む。
井上ひさしさんによれば「話すように書いてはいけない」
「話すように書け」と説いた作家は実に多い。たとえば、宇野浩二氏、佐藤春夫氏、里見弴氏、瀧井孝作氏ら。井上さんの推測では、松尾芭蕉の「深く入って浅く出づる」という表現論や、言文一致運動に対する篤い信仰があるのでは、とのこと。
井上さんは、本書において「話すように書くな」と説いているわけだが、たとえば次のような例を挙げた。日本語では、大事な意味を持つ述語が最後まであらわれないが、それはあくまで書き言葉でのこと。話し言葉では、述語をまず示してから、意味を詳しく限定する修飾語や修飾句を並べていくことが多い。
さらに話し言葉では、相手の反応を窺って途中から論旨を変えることがあるが、書く場合は間投助詞などの余計なものを排し、照応関係を正し、論旨に一貫性を持たせなければならない。また、話し言葉では声音や口調が重要な意味を担う。このようにずいぶんと違う。
ただし、会話態ではなく講話態、さらに講演やスピーチのようにゆるやかな講話態になると、話し言葉は書き言葉に近くなるということはいえる。前述した各氏がいう「話すように書け」は、これを指しているのかもしれない。井上さんは、「話すように書け」を信じると、やや不自然でじれったい作業となるので、両者は違うものだと覚悟を決め「話すように書くな」と定めたほうが近道だろう、と仰っている。
井上ひさしさんのいう「透明文章の怪」とは
その次の章のタイトルは「透明文章の怪」。文章の透明度という議論がされていたことに対し、井上さんは読者が読み続けるのは関心があるから、もしくは読むうちに関心が発生したからであると切り捨てた。読み手は、その先を知りたいという欲望が起きるから、先へ進む。そして不透明は文の宿命。立ち竦み、謎ときをし、言葉や文を実感するという一連の脳の働きが、文を読むということ。
たとえば、商業文には、簡潔、明瞭、礼、穏健の四つの心得が求められるという考え方があるが、簡潔と礼は両立しにくい。礼をわきまえるために、緩叙法、婉曲語法、迂言法などの修辞法が使われる。実用文においても、誇張法、隠喩、代称、対句、漸層法など、さまざまな修辞術がまぎれ込む。
検事の冒頭陳述について気を付けて読むと、誇張、婉曲、緩叙、列叙、迂言、冗語などの修辞術を総動員して、論理を展開している。ただし、陳述書には直喩が少ない。実用文には事実というタテマエがあるから、直喩だけは嫌う。
井上ひさしさんが抱いた三島由紀夫氏への対抗意識
この辺りまで読み進めると、井上さんが抱いた三島由紀夫氏への対抗意識が顕著になってくる。その才能を認めつつ、純文学作家である三島由紀夫氏が書いた文章読本、三島読本については、大衆小説の書き手への意味のない蔑視にはいらいらするとも。批判精神を持って、三島読本への反論などを交えながら、世の中の文章について幅広く取り上げている。
井上ひさしさんの『自家製 文章読本』の中盤
本書は、井上さんの個性が強く、面白おかしく書かれている。とくに、オノマトペの章あたりからは、その傾向が強い。井上さんは、オノマトペは脾弱な動詞を助けてくれるものだから、公的な文章などは別として、毛嫌いしてはいけないことを強調している。
日本語の特色のひとつは、その文末決定性にある。しかし、基本的な動詞はよく使われるだけに、力が弱い。そこで、動詞に動詞を連結させる複合動詞や、擬声・擬態・擬情語などのオノマトペを併用して文末決定力の増強をはかる。
そして、日本語の文末の単調さにも触れる。これは、文章入門書では必ずと言っていいほど取り上げられる問題であろう。井上さんは、谷崎潤一郎氏の『文章読本』、三島由紀夫氏の『文章読本』、能戸清司氏の『文章はどう書くか』の三冊から引用し、持論を展開している。
現在の日本語の助動詞は、変化に富んだ古代語に比べ弱体化し、動詞そのものの活用も活発ではなくなってしまった。これにより、文から情緒を失わせはしたものの、口語文の機能を高めもした。
語形変化によって示される言葉を屈折語という。活用のうるさかった時代の日本語は、屈折語に近かった。それが、活用が衰えるにつれて、助詞などの膠着語的な部分が増大した。
19世紀の欧米の言語学者たちは、孤立語から膠着語、そして屈折語へと順に発達するとした。それに対して、井上さんは孤立語も屈折語も、膠着語へと発達し、変化しながら徐々に分析性を獲得していくとした。
動詞の活用のあまり屈折しない英語が広く使われていることや、中国における助辞発達の事実を理由に挙げている。もちろん、英語が国際語としての役割を担うようになった背景には、経済や歴史の影響があるはずだ。しかし、英語が広く用いられているのは、フランス語やドイツ語などに比べて非屈折的だからという理由もあるのだろう。
よって、日本語から動詞の活用、すなわち屈折語的部分が脱落していく傾向は悪いことではない、と。文末の問題は偶然ではなく、体系上、構造上の空白。文章家の怠慢というわけではないが、宿命と諦めた上で手を打たなければならない、とのこと。
また、志賀直哉の「暗夜行路」や川端康成の「伊豆の踊子」を例に挙げ、「……た」の連続が単調ではないどころか、読む者の心の裡に快いリズムを響かせ、器になっていることを付け加えている。そして、大江健三郎氏の「個人的な体験」の引用をもって、「踊る文章」というタイトルの章を締め括った。
作り手だけでなく、受け手の側に立って眺めてみると、言葉や音楽では時間的な順序が大いに問題になる。一片の言葉でもそうだし、句、文、文章が密接に、そして厳格に時間とかかわってくることは明らかだ。文章とは、冒頭から結尾にいたる時間の展開。ただし、たとえば丸谷才一氏の「年の残り」のように、純文学では文章を時間から引き剥すこともある。
本書では、「和臭と漢臭」について二つの章を設けている。新聞の社説や政治家の所感、場合によっては広告のコピーであっても、公の文章においては、規範意識が強まり漢臭のする文体で書かれる。対して小説では、自分の文体に私的なものを載せ、人々の私生活における私的感情をどれだけとりこめるかが勝負どころ。
漢字のあるところには多少なりとも漢臭がつきまとう。しかし、出来合いのことばを漢文訓読の文脈に適当に填め込み、漢字の造語能力を悪用し、漢字をべたべた並べるだけでは、字面が汚くなってしまう。和臭のある文章のほうが、分かりやすいし、字面もやわらかくなるのではないだろうか。だが、漢臭が日本語の文章の宿命であり、立派に使いこなすことが賢明なのは確かだろう。
井上ひさしさんの『自家製 文章読本』の終盤
たいての文章入門書には、漢詩の起承転結の感覚で文章の論理を組み立てるのがよい、といったことが書かれている。逆に文章の構成法に秘訣はないので、できるだけたくさんのよい文章を読むべきとする著者も多い。
よい文章を読むと、文章に対する解釈力が向上するかもしれない。しかし、どう文章を組み立てるべきかという、いま抱えている問題を解決できるだろうか。という流れで次のような話に移る。
紀元前5世紀ごろの南イタリアの話になるが、コラクスという人物が「技巧(テクネ)」という論文を草した。これは史上最初のレトリックの教科書であった。この中に議論の組み立てについて書かれている。それは、「序論・叙述(説明)・論述(「たしからしさ」による証明)・補説(補足)・結語」の五つの部分からなる。このコラクスの五分法は、ヨーロッパ・レトリックの基本となった。19世紀までヨーロッパの学校では修辞学が重んじられてきたが、補説が反論に変わっただけであった。
ヨーロッパ・レトリックの五分法は、明治期に日本へ輸入され、説教の五段法と結びついて規範化した。そして、戦後へも引き継がれる。説教の五段法とは、「賛題・法説(賛題の法義の解説)・譬喩(法説のたとえ)・因縁(法説の証明)・結進」。
また、斎藤栄三郎氏の「雄弁の技術と歴史」には、「予備・提示・連結・総括・応用」という五分法が掲げられていることが紹介されていた。これらの五分法は、三分法の「序論・本論・結論」や四分法の「起承転結」などへも移し得る。さらに、木下是雄氏は「理科系の作文技術」のなかで、理科系の論文の構成も「起承転結」に似たところがあると記した。
「形式と流儀」の章は、ふたたび文体についてだが、ここでは実践的なことが書かれていた。井上さんが読んだ文体論のなかに感心したものが二編あったとのこと。その一つはジョン・ミドルトン・マリ氏の「小説と詩の文体」。彼は文体を三つに分けた。「個人的特異性としての文体」「表現技術としての文体」「文学上の最上の成果としての(絶対的な意味における)文体」の三つである。
もう一つは原子朗氏の「自分に適した文体の発見」という論文。このなかで、文体を四つに分類している。「一般的、常識的な意味での文体」「発想・表現の技法としての文体」「芸術的価値としての文体」「超個性的な様式としての文体」。四つ目の「超個性的な様式としての文体」については、井上さんによれば、原氏は「文体をあまりに個性主義的に、また実証的に考えようとする近代主義的思考に衝撃を与えることを願って」持ち出したようだ。
この二つの論文を基に、井上さんは文体を四つに分けた。その際、文体という語を廃し「文章形式」「文章流儀」「文章成果」「文章様式」とした。一部のみ抜粋すると、一つ目の「文章形式」とは、デス・マス体、ダ・デアル体、記事文、叙事文、説明文、議論文、勧誘文、講義体、兵語体、口上体、会話体、書簡体、日記体など文章の外見上の特徴。ジャンルの文体とも言い換えてもよい。
二つ目の「文章流儀」とは、前述の「文章形式」に書き手の個性が加味されたもの、あるいは現れたもの。筆癖といっても間違いではない。三つ目の「文章成果」は、マリ氏が掲げた三つ目の「文学上の最上の成果としての文体」が該当し、井上さんのいう「文章流儀」がうまくいったときに実現する。すなわち「文章流儀」と「文章成果」は個人の文体。
そして四つ目の「文章様式」は、天才や巨人の文章を指す。その文章からその時代の人々の内的経験が表現され、その文章を手本にすれば自分達は互いに呼びかけあえるかもしれない、そう思わせる文章とのこと。時代の文体と考えてもよい。言語共同体の手本となるような文体である。
井上さんは、このように文体を四つに分けることを試みたうえで、結局、本当に学びうるのは一つ目の「文章形式」しかないのではないかと、見当をつけた。井上さんは、文体という言葉を四つに分けることで「文章形式」と「文章流儀」を分離独立させたかったとのこと。また、この二つであれば学習可能であるが、残りの「文章成果」と「文章様式」については文章読本では扱うことではない。
そして、この段階になれば、簡単にお手本が見つかる。書き手は、これから書こうとしているものはどんな体裁の文章かを考えれば、自ずと答えが見つかるのではないだろうか。どんなときでも「文章の中心思想」を練り上げておくことが大切で、鋳型はたやすくみつかる。
井上さんは比喩の力を強調している。「使われる比喩の量と文章を書く難しさは正比例」する。たとえば、算数の問題文を容易に書けるのは、比喩が不要であるから。抽象度が高いほど、各個人の差はなくなる。足し算の計算式は、抽象度がきわめて高い。算数の問題文も同じ。「理解させる努力」である比喩もなくて済む。
回覧文や法律文なども、お手本があればどうにか書ける。商用文に関しても同じ。新聞記事や社説などは、直喩がほとんど用いられないが、隠喩は大いに用いられるので少しばかり難しい。
随筆、小説や戯曲、そして詩となると、この順番にしたがって難しくなる。その文章が世の中の中心から外れ、個人的なものになればなるほど比喩の量が増えてゆく。心の生活のなかに、ぼんやりしているが自分にとっては重大なものがあるとき、個人的な内的経験と世の中の距離を瞬時のうちに埋めるのが比喩。井上さんは、このように比喩の力を信じているとのこと。国語辞典の語釈は見出し語の言い換え、つまりすりかえであるなら、言語とは比喩そのもの。
心の生活のなかにあるぼんやりしているが重大なものを、言語で完全に表現することはできない。内的経験を言語というものにすりかえて、いわば転換させて表現するしかない。内的体験を言語によってどこまで正確に喩えられるか、ただそれだけ。これによって、「文章流儀」を実現し、「文章成果」に近づく。
最終章「読むことと書くこと」には、「書記行為と読書行為を一緒くたに考えることは、文章を綴るときに大いに役立つ」と書かれている。というのも、書き手は自分が書いた文章についての最初の読み手。井上さんが知っている優れた書き手は、一人の例外もなくいずれも優れた読み手とのこと。よい読み手ほど、よい書き手になる。
井上さんの経験では、他人の指摘はあまり役に立たなかったそうだ。それよりも、自己の精神を修養するのが根本的治療法とのこと。言語作品を深く読み、書き手の精神を自分の体験として、心の内側を耕すことにすべてがかかっている。
言語の目的は、伝達と表現である。伝達とは、「算数の問題文や商業文や記事文などのように、お互いの共通の常識に働きかけながら送信と受信を完成させること」。伝達を旨とする文章を書く場合は、すでに出来上がっている手本を充分に摂取したほうがいい。
「しかし、言語を表現のために用いるとなると、これは未来永劫むずかしい」。共通の常識によりかかっては表現の質が粗悪になり、逆に共通の常識を軽視した一人よがりの送信は、ほとんど読み手に受信してもらえない。そこで、井上さんは比喩という言語手段を中心に、文章について考えた。
伝達用の文章入門書は数多く用意されている。ところが表現のための文章修業は、個人が自分の趣味にしたがって、自力で積み重ねていくほかはない。つまり画一的な文章読本はない。そのため結局、本書は井上さんのための文章読本と、ご本人が最後に述べている。伝達ではなく表現の文章を綴るなら、自分用の文章読本を編むのがよい。そのためには、井上さんのように表現のために書かれた文章を数多く読まなければならない。
本書は、毒舌と笑い話を交えた論評のため、好き嫌いがあるかもしれない。けれども、日本語全般についての教養を深められることは確かだろう。