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『選べなかった命』河合香織 母体保護法の矛盾、優生思想、医療の疲弊【書評】

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河合香織さんの『選べなかった命:出生前診断の誤診で生まれた子』は、文藝春秋から2018年7月に刊行されたノンフィクション作品。

2019年度の第50回大宅壮一ノンフィクション賞と第18回新潮ドキュメント賞をW受賞した本である。

著者の河合さんは、5年間にわたって取材を重ねたうえで、本書を執筆された。
本書の刊行以降も取材を継続されているようだ。

河合さんがこの問題を取材するきっかけは新聞記事。
その見出しは<出生前診断で説明ミス ダウン症を「陰性」>であった。

2011年、函館市の産婦人科医院で、当時41歳の母親が胎児の染色体異常を調べるために羊水検査を受けた。
実際にはダウン症との結果が出ていたにもかかわらず、医師からは「異常なし」と伝えられていた。
その年の9月に、母親は男児を出産。
男児はダウン症であり、肺化膿症や敗血症のため約3カ月後に亡くなった。
2013年、両親は「出産するか人工妊娠中絶をするかを自己決定する機会を奪われた」として訴訟を起こした。

河合さんは、提訴した母親と同時期に、彼女自身も出産されている。
35歳を超えていたので高齢出産。
(仮に45歳だと染色体異常児の出生率は21分の1)
しかも妊娠検査で胎児の首の後ろの浮腫を指摘され、生まれてくる子どもがダウン症などの疾患を持っている可能性を医師から指摘されていた。
出生前診断の説明も受けていた。
河合さんの場合、検査を受けず、どんな障害があっても生むことを決意。

河合さんのこの時の出産は過酷なものとなった。
羊水過少による緊急入院。
河合さん自身が敗血症となり、播種性血管内凝固症候群を併発。
生死の境をさまよったが、一命を取り留めた。
点滴につながれ、退院するまで子どもと会えず、離れて暮らしていた。

河合さんのお子さんに先天性の病気はなかった。

羊水検査は通常、妊娠16週以降に行われ、検査結果が出るのは2週間以上あと。

妊娠中期の中絶は人工死産。

一般的にいわれる中絶は、妊娠12週未満の妊娠初期に行われるもの。
静脈麻酔の下に吸引や掻把(そうは)によって子宮内容物を排出させる。
日帰りで行えることも多い小手術である。

しかし妊娠12週以降は、法律上は死産として扱われる。
行政への死亡届も必要となる。
とくに妊娠18週以降は胎盤も完成し、胎児も成長している。
妊娠中絶は「分娩」のかたちをとって行われる。

3、4日の入院が必要で、子宮の出口を拡張し、その後に陣痛促進剤を使って胎児を「産む」という「分娩」のかたち。
胎児がまだ小さいために出産にかかる時間は普通より短いことが多いが、出産の痛みは変わらない。
母体にとっては肉体的な負担も大きく、医学的リスクは普通のお産と同じだ。

妊娠22週未満の胎児は肺ができていないので呼吸ができない。
生きていくことができないが、生まれてから10分か20分くらいは心臓が動いていることは少なくない。

そして、胎児異常によって疲弊するのは、医療者も同じ。
みずから死産を起こし、生まれた命を看取ることに対しては極めて強いストレスを感じる。

中絶ができるのは妊娠22週まで。
法的にできなくなる。

中絶手術を受ける場合、「経済的理由」と書かなければ刑法の堕胎罪に抵触する。
日本の法律には「胎児の異常による中絶」という文言がないため、「経済的理由」を援用している。

母体保護法では、胎児の障害を理由にした中絶は認められていない。
人工中絶ができるのは、妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの。

しかし、出生前診断の結果を理由に中絶している人は大勢いる。
何を根拠に中絶が行われているかというと、「身体的または経済的理由」。

障害を抱えた子どもを育てていく経済力がないために中絶するのだから合法である、あるいは障害を抱えて子育てをすることで精神的な影響があるとの理屈を拠り所にしている。

中絶手術は各都道府県医師会が認定する母体保護法指定医が行う。
母体保護法指定医は、経済的理由を拡大解釈して人工中絶をしている。

1996年に旧優生保護法が母体保護法に改められた。
旧優生保護法は1948年から1996年まで存在した。
障害者差別であると非難され、優生思想に基づく部分が削除される形での改正であった。

国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW)は、深刻な胎児の障害を理由とする中絶を合法化するよう勧告を出した。
障害があっても出産を強制されるのは、自己決定権を阻害するという意見である。
欧米諸国では、女性の権利運動の成果として中絶が合法化された。

日本では歴史的に中絶と優生が抱き合わせの状態から議論が始まった。
勧告があったのちも、国会やマスメディアにおいて、胎児の障害を理由とした中絶、いわゆる胎児条項についてほとんど踏み込んだ議論がなされていない。

2013年4月より新型出生前診断(NIPT)が日本で始まった。
母体の血液だけでダウン症などの染色体異常を調べられるようになった。

NIPTについては賛否があり、障害者団体などは慎重に考えるべきという発言を繰り返した。

出生前診断を受け、ダウン症だと分かった場合、9割が中絶する。
ただし出生前診断を受けない人も多いことを考慮すると、障害があれば中絶せざるを得ないという思いが強い人たちの中での9割という見方もできるようだ。

ダウン症とは、通常では23対、計46本ある染色体のうち、21番目の染色体が3本あるため染色体の数が計47本である疾患。
症状のばらつきは大きいが、身体的発達の遅延、内臓奇形、特徴的な顔つき、軽度から中度の知的障害が特徴である。

ダウン症は成人しても、多くが小学1年生程度の知能。
排泄と着替えはできる。
平均寿命は50歳を超える。
取材の軸となった男児のように、ダウン症に起因する合併症によって早くに亡くなる子どもは少数。

ダウン症は知的障害を持つ場合が大半である。
しかし大学を卒業した経歴を持つ女性もいる。
彼女は、21番染色体が3本ある21トリソミー、ダウン症であることは間違いないが、知的な障害も身体的な障害も認められない。
つまり出生前診断で、どの程度の重篤さで生まれてくるかの診断はできない。
生まれてからしか判断できない。

NIPTの検査の対象となるのは3つの疾患。
13トリソミー、18トリソミー、21トリソミー。
かなりの精度が期待でき、臨床研究において「陰性」で、ダウン症が生まれてきたのは1万人に1人であった。

ただし染色体のすべての疾患のなかでこの3つが占める割合は70パーセント強。
残りの30パーセント弱の疾患はNIPTではわからない。
一般的な新生児の3~5パーセントは何らかの病気を持って生まれてくる。
このうち、染色体が原因によるものは4分の1程度といわれている。
つまりNIPT陰性という結果が否定できるのは、先天性疾患全体の20パーセント以下。

裁判から4年が経ち、河合さんは被告の医師の代理人だった弁護士にようやく取材ができた。
敗訴したことについては、ありえないミスをしたのだからしょうがなく、金額の問題であると述べている。
そしてダウン症による選別については、吐き気がする、人間が人間の命を選別すること自体絶対に許さない、と。河合さんは弁護士の信念が気迫として伝わってきたと書いている。
弁護士は、事件を思い出したくない、事件を担当するのが本当に嫌だったと語った。
河合さんは、尋ねたい質問はたくさんあったが、声を発することができなくなった。

被告となった医師は、何度依頼しても沈黙を守っている。
そして母体保護法指定医師であることには変わりない。

ダウン症や旧優生保護法については、ある程度見聞きしてきた。
本書には、裁判の様子や立場の違う人の意見が書かれている。
母親と家族の立場だけでなく、医療や法律的な面での取材も深い。

問題は複雑。
多種多様な意見が出ており、結論を出すには時間がかかりそうな問題である。

命の選別を免れ生まれてきたダウン症患者は、知的障害を持つ場合が大半である。
そのため彼らの意見を聞く機会は少ない。

裁判において原告側は、夫婦それぞれ500万円、計1000万円の損害賠償の支払いを求めた。

そして亡くなった子ども自身への死亡慰謝料も請求した。
訴状には、被告医院の債務不履行がなければ、子どもが死の苦痛を味わうことなどなかったことは明白、と。
最低でも2000万円相当の精神的苦痛が生じたというべき、と。

この文言は大きな波紋を広げた。

この裁判は、ロングフルバース(Wrongful birth)訴訟であると同時に、おそらく日本初のロングフルライフ(Wrongful life)訴訟。

判決は原告側の勝訴。
被告らに原告の両親にそれぞれ500万円ずつ、計1000万円の支払いを命じた。
子自身が主体となる損害は認められなかった。

選べなかった命/河合香織
出典:Amazon
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