私たちは、どこまで他人の痛みに寄り添えるのだろう。
たとえそれが、スクリーンの中の物語であっても――。
映画『あんのこと』は、実際の少女の人生をもとに描かれている。
その歩みはあまりにも過酷で、目を背けたくなるような現実がそこにあった。
けれど、彼女の存在は私たちのすぐ隣にいたかもしれない“誰か”に重なる。
この作品が伝えたかったものは何だったのか。
自分自身の視点で、静かに振り返ってみたい。
私たちは、あの少女の痛みにどこまで寄り添えるだろうか
――映画『あんのこと』を観て考えたこと
新聞の三面記事に掲載された、ある少女の壮絶な人生。それは、決して遠い世界の話ではない。
入江悠監督による映画『あんのこと』は、そんな一つの実話をもとに描かれた、静かでいて、鋭く胸を突く人間ドラマである。
この映画を観終えたあと、心の中で何かがざわめいていた。
目を逸らしてはいけない現実。
目の前の画面のなかの出来事が、たった一人の少女の物語であると同時に、いまこの社会を生きる私たちの誰にでも起こり得る「現実」なのだという事実が、じわじわと胸の奥に染み込んできたからだ。
河合優実さんが演じる“あん”は、どこまでも無垢で、脆くて、そしてときに恐ろしいほどの強さを秘めている。彼女の瞳の動き一つ、沈黙の間合い一つに、人生の重さが凝縮されている。演技というより、もはや“あん”そのものとして、彼女はそこにいた。
入江悠監督の手腕が光るのは、こうした重いテーマを扱いながらも、決してセンセーショナルに走らず、あくまで観る者の目線と同じ高さで、少女の人生を見つめ続けているところにある。
手持ちカメラの揺れ、音の間引き方、そして色調の選び方――それら一つ一つが、少女の「現実」を私たちの「現在」に引き寄せる装置となっているのだ。
本作を観てあらためて思う。
映画という表現手段は、単に物語を語るためのものではない。
私たちが見過ごしてしまいそうな誰かの声なき叫びを、形にする力がある。
だからこそ、この映画は「観る」というより「向き合う」作品なのだ。
“あん”が抱えるものは、貧困、家庭環境、依存、そして居場所のなさ――日本という豊かなはずの国において、見えにくくされている現実が彼女の身体を通して描かれていく。
それは社会の「隙間」ではなく、もはや「構造」の一部として存在している。
彼女を取り巻く周囲の人々の反応もまた、現実的だ。手を差し伸べる人もいれば、見て見ぬふりをする人、逆に利用しようとする者もいる。その誰もが特別に悪人ではなく、どこにでもいる“普通の人”として描かれている点に、この作品の痛烈さがある。
私たちは誰もが、彼女の運命に直接的・間接的に関わっている可能性がある。そう気づかされたとき、この物語は他人事ではなく、自分自身に跳ね返ってくる。
入江悠監督は、社会的な主題を扱ううえで、本作ではとくに「実話」という素材を最大限に尊重しているように感じた。
エンタメに寄せず、ドラマチックな転換点をわざと抑え、淡々とした日常の中で、じわじわと悲劇が忍び寄る構成。
クライマックスでさえも、過度な演出や音楽で煽ることなく、観る者に「考えさせる」空白を残している。それが、観客一人ひとりに“あん”の物語を自分なりに引き受けさせる仕掛けなのだ。
そして、何より印象的だったのは、最後に映し出される彼女の表情である。
それは絶望か、それともわずかな希望か。観る人の心境や経験によって、解釈は異なるかもしれない。だがその曖昧さこそが、この映画の強さであり、誠実さでもある。
「あんのこと」を、どう記憶にとどめるか
この映画を観て強く思うのは、”伝えること”の責任と難しさだ。
新聞記者が記事として彼女の人生を記録したように、映画というメディアもまた、ひとつの「記録」である。けれどそれは、単に過去を描写するものではない。観た人間の心に何かを残し、その後の生き方に作用する。
それが、映画の持つ社会的役割だとすれば、『あんのこと』は間違いなく、今を生きる私たちに必要な一本である。
ぜひ、多くの人に観てほしい。そして、自分なりの“あんのこと”を、胸のどこかに刻んでほしい。
彼女の人生は、終わったのではなく、こうして観た私たちの中で続いていくのだから。

作品情報
タイトル:あんのこと
監督・脚本:入江悠
出演:河合優実、佐藤二朗、稲垣吾郎、河井青葉、広岡由里子、早見あかり ほか
原案:朝日新聞「コロナが奪った25歳の中学生活 路上で倒れていたハナ」
制作プロダクション:コギトワークス
配給:キノフィルムズ
劇場公開日:2024年6月7日
Blu-ray/DVD ほか
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