この記事では、三島由紀夫氏の『文章読本』について、その魅力をさまざまな角度から掘り下げていきます。
文章読本 三島由紀夫・著
書誌情報
書名:文章読本
著者:三島由紀夫
出版社:中央公論新社
発売年月:単行本 1959年6月, 文庫本 1973年8月, 文庫本改版 1995年12月,文庫本新装版 2020年3月
ページ数:文庫本新装版 256ページ
教養を感じる高い見識と明快さ
三島由紀夫氏(1925-70)は、文章の最高の目標を、格調と気品に置いた。三島氏の『文章読本』は、昭和34年(1959)に雑誌『婦人公論』の別冊付録のかたちで世に出、同年に中央公論社から単行本として発行された本である。本書からは、 教養に裏付けられた三島氏の卓越した見識を感じた。
実用的な文章なら誰でも書ける。しかし鑑賞に耐えうる文章は、専門的な修練を経なければ簡単に書くことはできない。
フランスの文芸批評家、アルベール・チボーデ(Albert Thibaudet/1874-1936)は、小説の読者を普通読者(lecteurs/レクトゥール)と精読者(liseurs/リズール)の、2種類に分けた。
三島氏の『文章読本』は、レクトゥールでいることに満足しない人に向けて書かれている。本書には、レクトゥールをリズールに導こうとする執筆意図があるようだ。
精読者となることは、作家になるための条件でもあり、出発点でもある。
精読者となり、作家となることを考えているなら、本書は為になる面白い本といえるであろう。
才能や運命があるのも確かで、絶妙のリズールでありながら作家たり得なかった人もいる。
しかし批評もまた立派な芸術作品たりうる。
言語芸術は、詩や小説や戯曲などだけではない。
逆に大作家でありながら偏見に満ち、他の小説に対してリズールたることを拒絶した作家もいた。
これは自分の資質にあわない文学の拒絶であって、リズールたる素質は持っていると考えてよい。
三島氏は、自分の好みや偏見を去って、本書を執筆している。
また三島氏自身の小説作法を知ることができ、非常に勉強になった。
文章読本としての完成度が高い。
書かれていることが明快であり、記憶に定着する。
三島氏の知見は信頼でき、為になる内容であった。
第7章「文章技巧」の「文法と文章技巧」という節の冒頭は、人称についてである。
小説は一人称か三人称で書かれるものと決まっている。当時、フランスの「反小説」のなかに、二人称の小説がでてきたが、これは特殊な例。昔からある書簡体小説は一種の二人称小説である。
小説らしい人称は、あくまで三人称だ。
一人称は日記、二人称は手紙である程度満足される。
三人称で文章を書くには、日記でもない手紙でもない作品というものを書かなければならない。
小説の主人公を「彼」と書くべきか、「私」と書くべきか。
日本では私小説の伝統が根強い。
「彼は」と書くと文章が浮き上がり、「私は」と書くと文章が厳密に定着されたように感じる。
日本語は人称をはぶくことが容易だ。
私小説の場合、一度「私」というものが定着されれば、ほとんど無限に人称をはぶける。
「彼」であっても同様である。
三人称まではぶく簡潔な文章技法は、彼を私と混同させ、小説を読者の精神世界に密着させる働きをする。
第8章「文章の実際」では、推敲のことが書かれている。
三島氏は、原稿用紙一枚一枚を勝負と考え、納得がいけば、次に進んでいたようだ。
文章をあとから訂正することをしなかったらしい。
現在の自分自身にとって一番納得のゆく文章を書くことが大切。
そして三島氏は、文章の最高の目標を、格調と気品に置いている。
正確な文章でなくても、格調と気品がある文章。
格調と気品は、古典的教養から生まれるものである。
文体による現象の克服を、文章の最後の理想としている。
本書は、8章から成る。各章は決してばらばらに述べられておらず、つながりがある。
構成は次の通りである。
第1章 この文章読本の目的 第2章 文章のさまざま 第3章 小説の文章 第4章 戯曲の文章 第5章 評論の文章 第6章 翻訳の文章 第7章 文章技巧 第8章 文章の実際 — 結語
読んでよかったと納得のいく内容であった。