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『文章は接続詞で決まる』石黒圭 全体像の把握と重要な役割の理解【書評】

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石黒圭氏の著書『文章は接続詞で決まる』は、2008年9月に光文社新書から刊行されたロングセラー。本書を読むと、接続詞についての理論と実用的な知識が身につく。接続詞の全体像を把握し重要な役割を理解することで、文章を書くときに役立つ。

「序章 接続詞がよいと文章が映える」では、料理の作り方について書いた文章を例にして、接続詞の重要性を示している。この文章では、2段落目から「まず」「つぎに」「それから」「ここで」「そして」「最後に」という順番で、接続詞を組み合わせることにより、料理の手順を示している。読みやすい文章に感じるのは、各段落の冒頭にある接続詞が効いているから。料理のレシピは、見やすいように箇条書きにすることが多いかもしれない。しかし文章の形で示すには、接続詞による支えが必要。

本書は、総論・各論・実践編の三部構成になっている。「第1章 接続詞とは何か」「第2章 接続詞の役割」が総論。第3章から第8章までが各論で、「第3章 論理の接続詞」「第4章 整理の接続詞」「第5章 理解の接続詞」「第6章 展開の接続詞」「第7章 文末の接続詞」「第8章 話し言葉の接続詞」からなる。第9章から第11章までが実践編で、「第9章 接続詞のさじ加減」「第10章 接続詞の戦略的使用」「第11章 接続詞と表現効果」という構成である。

「第1章 接続詞とは何か」では、専門的にはあいまいな位置にある、接続詞の定義から始まる。接続詞の一般的な定義は、例えばこのようになるだろう。「文頭にあって、直前の文と接続詞を含む文を論理的につなぐ表現」。本書では、副詞や指示詞との境界、接続助詞との違いを明確にするために、次のように定義している。「独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現」。先行文脈の内容を受けるところが副詞と異なり、後続文脈の展開の方向性を示すところが指示詞と異なる。また、接続詞は先行文脈との間に切れ目があり独立しているが、接続助詞には切れ目がなく、先行文脈に属する。

接続詞は、「これ」「それ」などの指示詞との境界線はあいまいで、「それから」「それで」「そうしたら」「このように」などは、指示詞が由来の接続詞である。先行文脈を指示する指示詞に助詞がつき固定化すると、接続詞になりやすい。言語学の世界では、接続詞という品詞を認めない立場もある。最近の日本語学では、「接続表現」として一括することがあるらしいが、一般の人には馴染みがない。逆に認める立場では境界線が問題になるとはいえ、接続詞という考え方はあったほうがよい。たとえば、「とくに」「とりわけ」「ただ」「むしろ」などの限定を表す副詞が、文中ではなく文頭に立った場合、接続詞ととらえたほうが現実的。

接続詞と接続助詞の違いははっきりしている。接続詞は、先行文脈とのあいだに切れ目があり、後続文脈に属する表現。対して、接続助詞は、先行文脈とのあいだに切れ目がなく、先行文脈に属する表現である。この違いはけっこう大きい。文の意味する内容が同じでも、ニュアンスが微妙に違う。接続詞を使うと、それぞれの文が独立していて、情報としての重みを感じる。

接続詞は他の品詞と区別が難しい。歴史的に見ると、はじめから接続詞だったと認定できるものはほとんどない。副詞、指示詞、接続助詞、動詞の連用形、相対性のある名詞などが、変化したものばかりだ。「接続詞は、文という単位で書きたいことを切り出して表現するという習慣が定着した近代以降、急速に整備が進んだ品詞」。近代といえば、日本語にも欧米からの影響があった時代。母国語の研究でありながら、学者の意見が分かれたり、不明瞭な態度が多かったりするのは、このような事情があるのかもしれない。その点、本書では明確に接続詞の重要性が示されていると感じた。

接続詞は一般的には、文頭にあって直前の文と接続詞を含む文を論理的につなぐ表現と定義される。だが接続詞は、「文と文」だけをつなぐとは限らない。接続詞は、「語と語」「句と句」「節と節」のように、文より小さい単位をもつなぐ。逆に、文より大きい単位である「段落と段落」をつなぐことも可能。
この際、接続詞には、短い要素をつなぐのが得意なタイプと、長い要素をつなぐのが得意なタイプがあり、この違いによって、長くて複雑な構造の文章も読みやすくなる。使われている接続詞から、読み手が文章の構造をある程度予測できたほうが、読みやすくなるはずだ。書き手の側も、接続詞を上手く使用した方が、書きやすいだろうし、頭の中も整理しやすい。つまり接続詞は、書き手と読み手の双方に役立つ言葉といえるだろう。

前述した接続詞の一般的な定義に関しては、本当に論理的なのかという疑問もある。結論からいうと、接続詞は厳密な論理で決まっているわけではない。たとえば、「しかし」という接続詞は、先行文脈が全く同じで、後続文脈が論理的に正反対の事柄の両方に使われることがある。これは、接続詞の選択が、客観的な論理ではなく、書き手の主観的な論理で決まることを示しているといえるだろう。また、先行文脈と後続文脈が全く同じ文において、後続文脈の文頭の接続詞にどれを選択するか。たとえば、「しかし」と「そして」のどちらを選択するか。これは、書き手がどう意識し、読み手がどう理解するのかという解釈の論理に関係する。

人間は、文字から得られる情報を手掛かりにするが、文字情報の中に答えはなく、文脈から推論し理解する。答えは人間が考えて頭のなかで出すもの。接続詞の役割は、文のなかの情報を伝えることではなく、文脈を使った推論の仕方を指示することである。接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのだ。

「第2章 接続詞の役割」では、接続詞の機能を6つに分けて解説している。前提として、「接続詞は書き手のためのものであり、読み手のためのものでもある」ということが書かれている。「書き手のためのもの」という側面として、次のように考えられる。「思い出した順に整理していくという思考の展開は、思考の混乱を防ぐ」。「接続詞は、複雑な内容を整理し、あらかじめ立てた計画に沿って文章を展開させたいときに力を発揮する」。ただ、接続詞は原則として「読み手のためのもの」と考えた方がよい。どのような意味で読み手のものなのか。

それを知るために、「第2章 接続詞の役割」では、接続詞が読み手の理解のために果たしている機能を概観する。そのために接続詞の機能を6つに分けて解説している。「機能① 連接関係を表示する機能」「機能② 文脈のつながりをなめらかにする機能」「機能③ 重要な情報に焦点を絞る機能」「機能④ 読み手に含意を読み取らせる機能」「機能⑤ 接続の範囲を指定する機能」「機能⑥ 文章の構造を整理する機能」。

たとえば、「機能④ 読み手に含意を読み取らせる機能」。接続詞は、決まりきった関係にばかり使うわけではない。詩人は、意外な接続詞をあえて使うことがある。接続詞は、後続文脈の展開を予告するために、読み手の解釈の幅を狭めるような使い方をされることが多い。しかし接続詞には、新たな関係の発見をうながす創造的な側面もある。こうした使用方法は、文学作品にしばしば見られる。

「機能⑤ 接続の範囲を指定する機能」には次のようなことが書かれている。言語というのは、音声であっても文字であっても線的な構造。文章においても、改行が存在しない場合を想像すると、本来は一本の線のような構造をなしている。このように順に理解するプロセスがある言語は、絵画とは性格が異なるが、音楽には似ている。ただし、言語で表現される内容は、重層的。文章は、「第1部」「第1章」「第1節」などと区分される。章分けなどがされていなくても、接続詞によってこれが行われている。重層構造の良し悪しに影響するのだから、接続詞はけっして軽視できない重要な存在と言えるだろう。短い言葉である接続詞にも、書き手としての気遣いが欠かせない。

接続詞は、個々の意味によって、異なる範囲を指定する。「あるいは」「たとえば」「ようするに」「一方」の4つを比較すると、先行文脈と後続文脈の長短に、それぞれの傾向がある。接続詞により前後の文脈を意識させることで、線的な構造の言語を立体的に理解させることができる。こう考えると、文章では接続詞の存在が不可欠。

「機能⑥ 文章の構造を整理する機能」には、次のようなことが書かれている。文章には、段落という便利なものがあり、それによって内容のまとまりを示せるが、接続詞は内容のまとまりを示す段落の冒頭につけることができる。これは、長い文章では、とくに重要な機能になるだろう。読み手にとって分かりやすいだけでなく、書き手の側も全体的な構造を整理しやすくなり、執筆も推敲もしやすくなる。

文章構造をコンピューターの階層構造にたとえると、抽象的・一般的な内容を表す文は上位の階層となり、具体的・個別的な内容を表す文は下位の階層と考えることができる。この時に接続詞は、階層を変更したり維持したりする働きを持つ。「このように」「ようするに」「したがって」は上位の階層へ移動し、「たとえば」「具体的には」「なぜなら」は下位の階層へ移動する。「第1に」「まず」「つぎに」「さらに」は同一階層を維持しながら、移動することになる。
これができれば、文章の構造が一目で理解できるし、重要な情報を見分けやすくしてくれる。また、読み手の理解の省力化につながるのだ。

各論が始まる第3章の冒頭では、接続詞を4種10類に分けることが説明されている。接続詞を大きく分けると、「第3章 論理の接続詞」「第4章 整理の接続詞」「第5章 理解の接続詞」「第6章 展開の接続詞」の4つのタイプになる。さらにこの4つを、合わせて10に分類している。また、特殊なものとして「第7章 文末の接続詞」「第8章 話し言葉の接続詞」がある。「文末の接続詞」に関しては、一般的な感覚では接続詞と言えないかもしれないが、日本語の理解のために取り上げているようだ。また、「第4章 整理の接続詞」には、接続詞はできるだけ広く採る方針なので、序列の副詞も列挙の接続詞と考えておく、と書かれている。

「第5章 理解の接続詞」には、次のようなことが書かれている。日本語において、基本的に「なぜなら」系の接続詞は必須ではない。留学生の母語ではきっと、文頭の接続詞で理由を処理している。しかし、日本語に必要なのは「~からです」という文末。石黒氏は、本書において、これを「文末の接続詞」として扱っている。日本語では、文末の「~からです」によって、ここまでが理由であることを示したほうがわかりやすい。ただし、「なぜなら」系の接続詞は、ここからが理由だということを予告することができるので、唐突になる文脈では必要。そうでなければ、表出しないほうが洗練された文章になる。

第6章の「展開の接続詞」は、「転換の接続詞」と「結論の接続詞」の二つに分かれる。転換の接続詞「さて」は、書き手がもともと準備していた話題に戻すことを予告する接続詞である。この「さて」に限らず、接続詞は話題の重要な分岐点に使われている。それから接続詞は一般に、「それ」「そう」「そこ」など、ソ系列の指示詞から派生してできるものがほとんどであるが、結論の接続詞に限っては、「このように」「こうして」など、コ系列の指示詞が優勢。

第7章は「文末の接続詞」について。この接続詞は、「否定の文末接続詞」「疑問の文末接続詞」「説明の文末接続詞」「意見の文末接続詞」の4つに分類される。石黒氏は、これらが「文末で構造化に貢献する」ことを理由に、本書で取り上げた。

「こうした文末表現(例えば「だけではない」や「からだ」)は、文を超えたレベルで先行文脈と後続文脈の連接関係を示し、文章の構造化に貢献している ~(中略)~ 接続詞と共通する機能をこうした文末表現が果たしている以上、接続詞に準じて扱っておいたほうが、その位置づけが明確になる ~(中略)~ 実用的な観点からも、これらは接続詞の一種に含めて整理しておいたほうが、実際に文章を書くときに役に立つ」

「第7章 文末の接続詞」より引用

「だけではない」や「からだ」などを接続詞のテーマに取り上げ理由について、接続詞が文末に埋め込まれているようなもので、文末で構造化に貢献しているため、としている。「ということだ」「ことになる」なども、広い意味での文末接続詞の一種と考えることが可能で、「ことになる」の文頭には「したがって」などをつけられる。「のだ」は、文頭に「つまり」などがつけられる。
文頭の接続詞ばかり習熟しても、なめらかに展開する文章は書けるようにはならない。そのため、実用面を考慮して「文末の接続詞」として取り上げたそうだ。「文頭の接続詞と文末の接続詞の双方に目配りができるようになって初めて、読み手の立場に立った適切な推敲が可能」。
推敲の過程では、文頭の接続詞だけでなく、文末(語尾)の接続詞の調整も重要。「文末の接続詞」において大切なことは、「一般の接続詞と同じで、理解者の立場に立って調整すること」。

「否定の文末接続詞」には、「のではない」系と「だけではない」系がある。この二つには、「のではない」系は、読み手の心に疑問を生み、「だけではない」系は、他にもあることを予告する、という違いがある。
「疑問の文末接続詞」として、疑問の終助詞「か」を取り上げている。問題提起文は説明的な文章を書くときにとくに重要。そして、「か」単独よりも「のか」、「のか」よりも「のだろうか」のほうが疑っている感じが濃くなり、疑問としての力も強くなる、というようなことが書かれている。
「説明の文末接続詞」は、「のだ」系と「からだ」系。「のだ」系は、文章の流れにタメをつくり、「からだ」系は理由をはっきり示す。
「意見の文末接続詞」は、3つ。「と思われる」「のではないか」「必要がある」の3つあるが、これらは論文・レポートを書く際に、事実と意見を区別する上で重要だ。「と思われる」は、思考動詞・伝達動詞の自発形・可能形で、「と考えられる」「と言える」もよく使われる。ポイントは、「と思う」「と考える」「と言う」のように積極的に判断するのではなく、むしろ自然な流れであり、論理の必然的な帰結である点。だからこそ広い意味での文末接続詞と呼べる。「のではないか」系は、「のだ」の否定疑問文で書き手の見解を提示する。「必要がある」は、書き手の当為の判断を表し、主張を妥当なものとして提示するのに使われるので、その主張に至るまでの文章展開は論理的必然性を高めるような流れになっているのが普通である、とのこと。
「と思われる」は、自身の判断に必然感を加え、「のではないか」は慎重で控えめな提示、「必要がある」は根拠を示したうえで判断に至る、というように語感に違いがある。論文・レポートを書く際に重要だという意見に頷けるのではないだろうか。

第8章は「話し言葉の接続詞」。第3章から第7章は、書き言葉の接続詞であったが、特にやっかいなのが話し言葉と書き言葉の接続詞の違い。接続詞というのは文体差が出やすい。話し言葉でしか使われない話し言葉専用の接続詞もあるし、書き言葉で使われる接続詞でも、話し言葉で使われると、その用法や機能が変わってくる場合もある。
また、接続詞は、基本的に話の流れを話し手が管理しているときに現れる。そして対話では、基本的には接続詞があまり使われない。なぜなら接続詞の多用は、話の流れを話し手が独占しているような印象を与え、相互交渉を前提とする対話では相手に対して失礼になることが多いからだ。

だが、話し言葉でも接続詞は使われる。対話で使われる接続詞は、その場の空気を転換させ、話し手が主導権を握るために欠かせない。このような事から、よく使う接続詞で書き手の隠れた性格がわかる。必要になり使うにしろ、そのような流れの文章を書いたり、思考をしたりするのだから、性格といっても過言ではない。相手との関係性が影響する対話よりも、むしろ表面的ではない本質的な性格が、言葉として表出するかもしれない。また、特定の接続詞を、口癖のように使う方がいるかもしれない。
論理性重視の書き言葉の接続詞に対して、話し言葉は感性重視。感性で文章を書くほうが、表現の幅が広がってゆく。また話し言葉は、計画的な構成意識に乏しく、即興的に使われがち。話し手の性格や感情が、無意識のうちに出て聞き手に伝わりやすい。

「第9章 接続詞のさじ加減」からは実践編。この章を読むと、日本語の文章における接続詞の使用頻度は、10%台が中心と書かれていた。この数字を聞いて、予想より多かったでしょうか、それとも少なかったでしょうか? 私は接続詞を削ったり、省いたりしてしまうことがあるので、多いように感じた。しかし、本書を読んで、接続詞の重要性を知たったので、今後は、もう少し増やすかもしれない。文章の好みというものがあるなら、接続詞に対する意識には個人差がありそうだ。また、文章を書くときの意識の変化にともない、接続詞が増えたり減ったりもするであろう。
そして、使われる接続詞の頻度は、文章のジャンルによって変わる。この影響のほうが、むしろ大きいのかもしれない。私が書いているこの記事は、全体的な文章構造をあまり意識せずに書いているので、重層構造を示すための接続詞が少なくなってしまったように思う。

第9章には、使用頻度の多い接続詞の種類についても書かれている。新聞では、整理の接続詞と逆説の接続詞が中心で、上位5位は「しかし」「また」「だが」「一方」「さらに」。小説は、時系列的な展開を中心とし、逆説の接続詞によって意外性を示すので、上位5位は「しかし」「そして」「それで」「だが」「でも」、6位は時間的展開を表す「それから」、7位は登場人物の視点と関わる「すると」。新聞も小説も、逆説の接続詞が多いのは省略しにくいから。講義では、整理の接続詞が中心で、論理の接続詞が混じり、上位5位は「で」「それから」「そして」「つまり」「だから」。

第9章には、接続詞は多ければよいというわけではないことが書かれている。このさじ加減は、接続詞の使い方に関するポイントになるだろう。石黒氏は、接続詞の弊害として5つ挙げている。「文間の距離が近くなりすぎる」「まちがった癒着を生じさせる」「文章の自然な流れをブツブツ切る」「書き手の解釈を押しつける」「後続文脈の理解を阻害する」。

実践編になると、前章までの話と変わり、接続詞の多用を戒めている。接続詞は無いのが普通で、あるのが特別。接続詞は、話題の中心が継続される動きのない文では不要。この場合、連用形で簡単に一文にできるので、必要かどうかの判断がつきやすい。
また、文頭に不要な接続詞を入れるとで、前後の文の関係が意識され、間違った癒着を生じさせてしまう。文間の距離が近すぎても遠すぎても接続詞を入れないのが原則。
文芸作品の場合、美的意識から接続詞をいれない場合がある。接続詞は、文章の流れを一旦切断し、あらためてつなぎ合わせる。文芸作品にはリズムがあるが、接続詞を入れることで、リズムがだいなしになるかもしれない。文章の流れを切りたくないときには、接続詞を使わないのが鉄則。
一般的に小説家は接続詞を嫌う。小説は表現の可能性を広げるジャンルであるため、決まった理解をされるような表現技法を嫌う。小説では、文間に余韻が漂うくらいがちょうどいい。接続詞がないと読み手の負担が大きくなるかもしれないが、接続詞が多すぎると書き手の解釈の押し付けのような印象を与えてしまう。接続詞をつけると、書き手が顔を見せ、書き手の解釈が入る。そのため客観的に書きたいとき、前後の関係を限定したくないときは、接続詞をつけないほうが賢明。
注意点として、読み手が書き手と同じ文脈でその接続詞を理解するであろうという思い込みをしてはいけない、と書かれている。書き手と読み手の文脈が異なると、接続詞は理解を阻害するだけ。誤解を生まないためには、表現を調整することが重要。

「第10章 接続詞の戦略的使用」の冒頭には、接続詞のあいだを文で埋めていくという発想について書かれている。機会があれば、実践してみたいと思える話であった。これは、書くべき内容があって、そのあいだを接続詞で埋めるのではなく、逆の考え方をするという発想。そういう発想ができると、文章の骨組みがしっかりして、読みやすい文章になるという意見だが、何となく想像できるのではないだろうか。

欧米由来の作文技術であるテクニカル・ライティングについても書かれている。このテクニカル・ライティングで重視されることは、3つ。「段落(パラグラフ)が重要であり、段落は一つの話題について一つの考えを述べる」「段落のなかには、内容を端的に述べる中心文(トピック・センテンス)を一文含む」「書き手の言いたい内容を先に述べ、中心文は原則として段落の冒頭に置く」の3つである。そして段落冒頭の中心文には、その流れを示すように接続詞をつけるとよい。

頭のなかにある漠然とした考えは、整理しないと文章として書けない。まずは文章のアウトラインを明確にする。核となる情報があり、その情報の関係が明確であることが必要。このアウトラインを背景に、文章全体が集約していく。この流れが頭のなかにあれば文章は書ける。まずは段落の冒頭の文でトピック・センテンスを提示し、後続文で補ってゆく。万能な書き方とは言い切れないが、文章を書くのが苦手な方には有効な型になり得るだろう。また、型をきちんと身に付ければ武器になるし、論文やレポートには必須の技術とも言える。

「第10章 接続詞の戦略的使用」では、接続詞の二重使用についても触れている。接続詞が二重に使用されるケースは3つ。
一つ目は、似たような接続詞を重ねるケース。たとえば、「しかし、それでも」「しかし、だからといって」「そして、また」「しかし、一方」など。とくに、講義や講演などに、よく出てくるが、書き言葉でもあえて行うことがある。これは似たような接続詞を重ね、目立たせたい場合である。重ねるときは、比較的意味の広い接続詞が先になり、意味を限定する接続詞は後。先にくる「しかし」や「そして」は、接続詞らしい接続詞と言えるであろう。この場合の「また」や「一方」は補足的。この事からは、どの接続詞が接続詞らしく、どれが副詞に近いかが分かる。
二つ目は、異なる意味の接続詞を重ねるケース。文脈のとらえ方を複数の視点から提示したい場合である。たとえば「しかし、だからこそ」。これにより文脈の背景になっている論理をあぶりだす。
三つ目は、文章の構造を明確にするために重ねるケース。接続詞が二重に使用される場合、指定する範囲が広いほうが前で、狭い方が後ろ。これにより、重層的な構造の提示ができる。

話が少し変わって、接続詞を使う際、漢字か平仮名か、読点は打つかという、表記の問題がある。漢字か平仮名かという表記に関しての、一般的な傾向は3つ。「漢語は漢字で、和語は平仮名」「実質的な意味が強いものは漢字で、文法的な機能を表すものは平仮名」、そして「慣習」。
石黒氏は、接続詞は実質的な意味が希薄で、もっぱら文法的な機能を表すという観点から、平仮名で書くことを原則としている。だが、「一方」「実際」「結局」などの二字漢語は、漢字との結びつきが強く、平仮名では分かりにくいという理由で漢字にしているとのこと。ただし、この原則では、「ぎゃくに」「ようするに」「それにたいして」という表記になってしまう。
日本語では正書法が確立していないので、折衷してもよいし、個人の裁量で工夫して書けばよいとのこと。もし迷ったり組織の一員として文章を書いたりするのであれば、新聞社や出版社などが出すルールブックを参考にするとよい。

読点に関しては、石黒氏は文頭の接続詞には必ず読点を打つようにしているとのこと。理由は、接続詞は先行文脈の内容を持ち込み、文相当の役割を果たすと考えるから。また速読したときに、前後の文の関係がすぐに分かり実用的だからという考えである。これも書き手の個性に左右されるし、接続詞の種類や文章のジャンルによっても異なる。接続する範囲が広いときや、とくに重要な働きをしているときだけ打つという方も多い。私の場合、文頭の接続詞でも、読点を付けたり付けなかったりするので、石黒氏の書き方よりも、後者のいずれかの書き方に属することになるだろう。

第11章は「接続詞と表現効果」。小説家は接続詞を嫌う傾向があるが、他のジャンルと比べて、接続詞の割合が低いわけではない。これは、削るべきだという議論などがなされているだけ。言語芸術である文学作品では、接続詞の一つひとつにも気を使っているため、効果的な接続詞の使い方が見られるであろう。
本書では夏目漱石の作品を引用し、話が佳境に入るところで効果的に使われていることが示されている。漱石の「坊ちゃん」「それから」「門」が取り上げられている。その他、川崎洋(1930年 – 2004年)の詩「鉛の塀」、尾崎一雄(1899年 – 1983年)の短編小説「虫のいろいろ」、梶井基次郎(1901年 – 1932年)の短編小説「檸檬」。そして最後は、谷川俊太郎さんの「そして」(「minimal」)という題の詩で締め括られている。

文章は接続詞で決まる/石黒圭
出典:Amazon
書籍情報

書名:文章は接続詞で決まる
著者:石黒圭
発行:光文社
発売日:2008年9月
Cコード:C0281

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