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『敦煌』井上靖 ‐ 莫高窟の真相はいかに【書評】

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この記事では、井上靖氏(1907-1991)の小説『敦煌』の終盤に描かれている蔵経洞と敦煌文書について、掘り下げていきます。

敦煌 井上靖・著

敦煌(井上靖, 新潮文庫)
出典:Amazon

書誌情報

書名:敦煌
著者:井上靖
出版社:新潮社(新潮文庫)/講談社/徳間書店
発売年月:単行本(講談社) 1959年11月/新潮文庫 1965年6月/電子書籍(新潮社) 2014年2月
ページ数:新潮文庫 320ページ
ジャンル:歴史・時代小説
Cコード:C0193(新潮文庫)
初出:『群像』1959年1月号から5月号まで

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蔵経洞と敦煌文書

1900年に敦煌の莫高窟から発見された夥しい数の経典類。大発見の立役者となったのは道教僧の王圓籙。イギリスの探検家、オーレル・スタイン、フランスのポール・ペリオらが、王圓籙からそれらの文書や絵画の一部を買い取った。のちに日本の大谷光瑞やロシアのオグデンブルグらも入手。アメリカのラングドン・ウォーナーは、壁画や塑像を持ち帰っている。このように大部分は外国人によって国外に持ち出された。中国政府は奪われたものとして主張している。

莫高窟は甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡で、千仏洞、敦煌石窟とも呼ばれている。石窟には仏塑像が安置され、壁画が描かれている。そして、1900年に敦煌文書が、王圓籙によって偶然発見された。王圓籙は流浪のすえ莫高窟に辿り着き、寄付を募り修復するなどして過ごしていた。空洞のような響きに気づき、壁を壊してみると、小窟の中に古文書類が積み上がっていた。この小窟は蔵経洞と呼ばれるようになった。

蔵経洞(第17窟)は、経巻類を蔵するために作られたわけではない。像を安置するための窟だった。では、いつ、誰が、どのような事情で、大量の経典や絵画を小窟の中に入れて、入り口を塞いだのか? いくつかの説が考えられる。

経典や絵画はいずれも11世紀以前のもの。歴史上の出来事として関係しそうなのが、1036年ごろの西夏王朝(1032~1227年)による敦煌侵入。火災による焼失などから守るために、敦煌の僧侶や知識人ら、および協力者が莫高窟に隠したのだろうか。

ただ、西夏の支配者は仏教を厚く信奉していた。西夏は、チベット=ビルマ系のタングート人が支配者層を形成し、漢人、チベット人、ウイグル人等によって構成された多民族国。西夏の支配者は、莫高窟の造営にも力を注いでいた。

むしろ、イスラム教徒の侵攻から経典類を守るために、敦煌の人々もしくは西夏王朝が隠したという説のほうが有力。11世紀の初めに、トルコ系イスラム王朝、カラハン王朝(840~1212年)が軍隊を東に進め、西域仏教の中心地、ホータン王国(コータン王国、于闐)を占拠し、仏教遺跡を破壊していた。

そのため、カラハン王朝による敦煌への攻撃を予期した敦煌の仏教徒もしくは西夏王朝が、大量の経典類を蔵経洞に封じたという説が有力視されるようになった。第16窟の甬道の壁画が西夏時代のものであることも、その根拠の一つ。

ほかにも、廃棄説という考え方もある。経の断片や残巻などが多いことから生まれた説であり、焼却するには忍びない使い古された経巻類を集めて封じ込めたということもあり得る。

この時代の中国王朝は宋(960~1279年)。唐(618~907年)が滅亡し、五代十国時代(907~960年)を経て、宋が中国を統一したのが979年のことであった。宋は1127年に女真族の王朝、金に華北を奪われ南遷したため、北宋(960-1126年)と、それを継ぐ南宋(1127-1279年)の2つの時期に分かれる。建国時の首都は開封、南遷後の首都は臨安。

物語は開封の町で始まる。北宋の第4代皇帝、仁宗の天聖四年(1026年)の春。趙行徳は進士の試験を受けるために、郷里湖南から都開封へ上って来た。

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