この記事では、村上春樹さんの小説『街とその不確かな壁』について、そのテーマや登場人物、物語の魅力をさまざまな角度から掘り下げていきます。
街とその不確かな壁 村上春樹・著
書誌情報
書名:街とその不確かな壁
著者:村上春樹
出版社:新潮社
発売年月:単行本 2023年4月/電子書籍 2023年4月
ページ数:672ページ(単行本)
ジャンル:文芸作品
紙書籍
電子書籍
作家デビューした頃の作品が40年後に新しい形で完成!?
村上春樹さんの『街とその不確かな壁』は、新潮社から2023年4月に刊行された、3部構成で660ページ超の長編小説。分量の配分は、第1部が180ページ超、第2部が400ページ超、第3部が60ページ超。
村上春樹さんにとって、長編小説の発表は6年ぶりであり、15作目にあたる。現実の世界と非現実の世界が夢や空想的な話の中で交錯するような物語であった。小説家としてのキャリアやスタンスを感じ取れそうな作品。
村上春樹さんご本人が本書のあとがきで述べられているように、長編小説『街とその不確かな壁』については、執筆の経緯を知っておいたほうがよさそうだ。
小説の核となったのは、1980年に文芸誌『文學界』に掲載された「街と、その不確かな壁」という中編小説。この中編を全面的に書き直したのが本書の第1部である。壁に囲まれた街、表裏一体の影と本体については、村上春樹さんにとって大切なモチーフであったが、1980年の作品は、『文學界』に掲載されたものの、内容的にどうしても納得がいかなかったため、書籍化はしなかったとのこと。
村上春樹さんは、1979年に『風の歌を聴け』(講談社)で作家デビューを果たしたが、「街と、その不確かな壁」を発表した当時の村上春樹さんは、東京でジャズバーを経営し、小説家の仕事を掛け持ちしていた。店を畳んで専業作家になられたのは、数年後のこと。
そして、「街と、その不確かな壁」を大幅に書き直して、1985年に発表したのが長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)。この作品では、もうひとつの全く異なるストーリーを加えて、二つのストーリーを並行して交互に進行させている。
しかし、歳月が経過し、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というひとつの対応とは別の異なる形の対応を考えるようになられた。そして、「街と、その不確かな壁」をもう一度、根っこから書き直そうと取り組まれたのが、今回の『街とその不確かな壁』。例えば『世界の終わり―』の段階ではなかった、『ノルウェイの森』(1987年)以降のリアリスティックな文体が第2部に持ち込まれているところも、違いのひとつ。
村上春樹さんはあとがきの最後に、アルゼンチン出身の作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘス氏(1899年 – 1986年)の言葉を借りて、次のように述べられている。
一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ
本書の主人公は、現実の世界では中年にさしかかり、東京の会社に勤めていた。メールで全国の支店に指示を出したり、書店の担当者や出版社の担当者と会って打ち合わせをしたりする仕事に従事していた。これは書籍の配本流通を管理する業務。長年にわたって携わっている。
しかし、ある朝、上司に辞職願を出す。仕事や私生活においては、差し迫った特別な理由があったわけではない。この現実が自分にそぐわないと感じただけ。
職を辞して2カ月。主人公は長い夢を見る。図書館で働いている。おそらくは小ぶりな地方都市の公立図書館。
私には新しい職場が必要なのだ。
図書館以外にはあり得ない。こんな簡単なことに、なぜこれまで気づかなかったのだろう、と主人公の「私」はようやく動き始める。
そして、「私」は、インターネットを使って図書館の情報を検索したり、近隣の図書館に足を運び、図書館に関する資料をひもといたりした。しかし、求めている情報は見当たらない。求めている情報は自分の記憶と想像の中にあるようだ。
そこで、退職した会社に電話をかけ、図書館関係の部署の知り合いに相談してみた。相談した相手は後日、現在人材を募集している、4つの地方都市の図書館をリストアップしてくれた。
その中のひとつ、福島県の内陸部にある町営の図書館に、主人公の「私」はなぜか心を惹かれた。
『街とその不確かな壁』の主人公は、非現実の世界では図書館で<夢読み>をしている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』においても、主人公は非現実の世界で<夢読み>をしていた。ただし、現実の世界は本書『街とその不確かな壁』とはまったく色合いの違うストーリーであった。主人公は計算士という暗号処理の仕事をしていた。そして、現実と非現実の二つのまったく異なったストーリーは、最後に結びつく。
今回の『街とその不確かな壁』に関しては、現実の世界では図書館の館長。
また、冒頭では17歳の時の「ぼく」と16歳の少女の語らいの場面が描写されている。その時の会話は、非現実の世界である。高い壁にまわりを囲まれた街と関連する。
そのため、物語全体に一貫性がある。
本書の中で、コロンビア出身のノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケス氏(1928年 – 2014年)が取り上げられていることも、本書を特徴づけていると感じた。図書館の館長となった主人公の「私」が福島で知り合った女性は、ガルシア=マルケス氏が好きなようだ。たいていの作品を読んでいて、なかでも『コレラの時代の愛』が好きらしい。
ガルシア=マルケス氏の代表作には、『百年の孤独』(1967年)、『族長の秋』(1968年)、『エレンディラ』(1975年)、『予告された殺人の記録』(1981年)、『コレラの時代の愛』(1985年)などが挙げられる。
『街とその不確かな壁』は、40年前の作品である「街と、その不確かな壁」を新しい形に書き直すとともに、完成させた作品ということのようだ。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは、あくまで併立し、できるものなら補完しあうものとのこと。
村上春樹さんの小説家としてのスタンスであるが、大抵の作家には同様のことが言えるのかもしれない。
いずれにしても、村上春樹さんの小説家としてのキャリアとスタンスを感じる作品であった。