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ことばと創作

渓蓀(あやめ)の句を推敲する

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渓蓀(あやめ)を題材に、いくつか俳句を作ってみました。
「ひときは/ひときわ」の語感や、切れ字「かな」の扱い、類想との距離感などを考えながら推敲した過程を記録しています。

同じ素材でも、語順や文体を少し変えるだけで句の印象が大きく変わることを改めて感じました。

ひときは濃き一輪のあやめかな

句作メモ
まとまりはあるものの、字足らずのため破調の印象が残った。

濃い紫色の渓蓀(あやめ)の花
今回の句作の題材にした渓蓀(あやめ)

ひときはに濃き一輪のあやめかな

句作メモ
定型には収まるが、「ひときはに」の助詞がやや不自然に感じられた。「濃きは」とする案も同様。

「ひときは」(一際)について、古語辞典と国語辞典を基にもう少し考えてみます。

「ひときは」は『岩波 古語辞典』では「特に際立って」の意味で使われる例があり、「ひときわ」は現代語として『岩波 国語辞典』に「他と比べて一段と」という意味で使われています。

『岩波 古語辞典』には、以下のように記載されています。用例は一部抜粋です。不要な方は読み飛ばしてください。

①(身分・位などの)一つの段数。一階級。
いまひときはあがりなむに<源氏 薄雲>
②一つの分際。
身の数ならぬひときはに<源氏 若菜下>
③一度。
ひときははいと高く鳴れど<大鏡 道長>
④一概。
常なきものをひときはに思ひ定めて<源氏 若菜下>
⑤≪副詞的に≫特に際立って。
心に任せてひときは人の目を驚かして<源氏 帚木>

②④では、「ひときはに」となっていますが、この句では、⑤の「特に際立って」の意味で用いています。

『岩波 国語辞典』では、「ひときわ」について以下のような記載があります。

他と比べて一段と。目立って。
「ひときわ大きい力士」「ひときわの悪として知られる」

むしろ、以下の形のほうが自然かもしれません。

ひときはの濃き一輪のあやめかな

句作メモ
「濃き」「かな」の古典的な調べとまとめるなら、「ひときは」と文語にしたほうが良い。

ひときわの濃い一輪のあやめかな

句作メモ
「ひときわの」とするなら「濃い」にしたほうが良い。

更に推敲すると、

ひときわの濃い一輪の花あやめ

季語メモ
渓蓀(あやめ)の傍題に、「野あやめ」「花あやめ」。

文語のほうが雰囲気が出るので、

ひときはの濃き一輪の花あやめ

語順を変えて言い換えると、

一輪の濃き色放つあやめかな

句作メモ
定型としては安定する一方、内容が説明的で、やや定番的な印象になった。

上記の渓蓀(あやめ)の句では、切れ字「かな」を使うか、傍題の「花あやめ」に変更するかして作句しました。

次は「かな」を外して、新たに言葉を加えたり、語順を変えたりしながらいくつか作ってみます。

あやめ濃し雨の名残の庭隅に

句作メモ
季語と景の取り合わせは自然だが、類想的でもある。庭にあやめを植えていれば思いつきやすい発想。

ひときは濃きあやめ一輪風の中

句作メモ
上句は字余りになるものの、「風の中」で空間が出た気もする。一方で、やや類想的な印象がある。

ひときは濃きあやめ一輪雨の中

句作メモ
雨の中だと観察する人の姿がぼやける。

傘をさし一人眺むる花あやめ

句作メモ
一人が平凡なので他の語に置き換えたほうが良さそう。「じっと」も同様。

小雨のあやめひときは濃き紫

句作メモ
十七音だが破調。

あやめ咲く濃き一輪の浮き上がり

句作メモ
定型としては安定するが、「咲く」が説明的に感じられる。また、「浮き上がり」の捉え方も分かれそう。

自分では、「ひときは濃きあやめ一輪風の中」が、この中では比較的よくできた句かなと思っています。

ただ、雨に濡れる渓蓀や、風に揺れる渓蓀では、どうしても既視感が残る気がします。

渓蓀の色や形、香りなど、その花自体の特徴をもう少し掘り下げたほうが良いのかもしれません。一方で、他の草花で置き換えられる内容だったり、広く知られた話に寄ってしまったりすると、俳句としての個性は弱くなりそうです。

そう考えると、何かエピソード、とくに渓蓀にまつわる具体的な体験や記憶と取り合わせることで、少し独自性が出るのかもしれません。もっとも、そのあたりは発想力や着眼点が問われる気もします。

庭の奥離れ離れに咲くあやめ

句作メモ
まだ推敲の余地はあるが、少し個性を意識した句である。ただ、類想に近づいている感覚もある。

あちこちで咲いては散るるあやめかな

句作メモ
句としてのまとまりはあるが、やや類型的な印象も残る。また、助詞「で」が散文的。

まず、助詞「で」の散文的な使い方を解消。

あちこちに咲いては散るるあやめかな

句作メモ
助詞「で」を「に」に変更。

次に語順を入れ替えるとともに、ひと工夫。

庭あやめ咲いては散りてあちこちに

句作メモ
庭の景が明確になった。また、「散りて」としたことで流れが滑らかになった。

上記三句は、庭の様子をそのまま句にした形ですが、意外性や発見が弱く、印象が平板になっている気もします。また、渓蓀(あやめ)でなければ成立しない句、とまでは言い切れないかもしれません。

もう少し発想を飛ばしてみる必要があるかもしれません。

庭の木にぶつかりて咲くあやめかな

句作メモ
生命感や存在感を十分に捉えきれていない。

五十年庭は窮屈花あやめ

句作メモ
5・7・5だが三段切れ。

五十年の庭は窮屈花あやめ

句作メモ
上五が字余りだが三段切れは解消。

上記三句は渓蓀(あやめ)の美しさを詠めていません。

日々の観察の中で。

花あやめ芯まで続く蟻の列

句作メモ
渓蓀と蟻の取り合わせ。ユーモラスな光景ではあるが、比較的よく見られる景でもありそう。

庭仕事の句。

木の枝に触るるあやめを移しけり

句作メモ
庭仕事の実景を詠んだ句。「木の枝に触るる」によって植え替えた理由は伝わるが、やや報告的な印象も残る。

渓蓀(あやめ)の句について、「類想から少し離れつつ、映像感や余韻が残るか」を基準に、現時点での自己評価をまとめてみます。

順位俳句ひと言
1庭の奥離れ離れに咲くあやめ配置に個性と余韻がある
2花あやめ芯まで続く蟻の列花の芯への視線に発見がある
3ひときは濃きあやめ一輪風の中一輪を際立たせる風景がある
4木の枝に触るるあやめを移しけり実景の確かさがあるがやや報告的
5ひときはの濃き一輪の花あやめ文語の調べが比較的まとまっている
6庭あやめ咲いては散りてあちこちに庭の景が明確になり、流れも滑らか
7あちこちに咲いては散るるあやめかな定番的だが流れは自然
8あちこちで咲いては散るるあやめかな助詞「で」が散文的
9あやめ濃し雨の名残の庭隅に落ち着いた景だが印象はやや穏やか
10ひときは濃き一輪のあやめかな破調の印象がやや残る
11一輪の濃き色放つあやめかなやや説明的な印象
12あやめ咲く濃き一輪の浮き上がり表現が少し抽象的
13傘をさし一人眺むる花あやめ一人を他の語に変えたほうが良い
14ひときは濃きあやめ一輪雨の中雨の中にすると映像がぼやける
15小雨のあやめひときは濃き紫十七音だが破調
16五十年の庭は窮屈花あやめ個性を出したが詩的な雰囲気に欠ける
17庭の木にぶつかりて咲くあやめかな渓蓀そのものの魅力がやや伝わりにくい
18五十年庭は窮屈花あやめ5・7・5だが三段切れ
19ひときわの濃い一輪の花あやめ口語寄りでやや散文的
20ひときわの濃い一輪のあやめかな収まりはよいが印象は薄め
21ひときはの濃き一輪のあやめかな文語統一はあるが硬さも残る
22ひときはに濃き一輪のあやめかな助詞にやや無理がある

上位四句については、技術的完成度なら「風の中」の句、独自性と視線の広がりなら「離れ離れ」、日々の観察による発見なら「蟻の列」の句かもしれません。また、「木の枝に触るる」の句では、実景をそのまま句材にする面白さを感じた一方で、写生と報告の境目の難しさも改めて考えさせられました。

「離れ離れに咲く」には、作者自身の庭の観察が入っています。類想から一歩離れるためにも、「離れ離れ」の句を1位に位置付けることにしました。

「蟻の列」の句は一物仕立てではなく取り合わせです。取り合わせは句に別の視点を持ち込むことができ、類想から離れるきっかけにもなります。

一方、「木の枝に触るる」の句は、実際の庭仕事という具体的な体験に根差しており、今回の句群の中では最も生活に近い一句でした。ただ、そのまま事実を述べるだけでは報告になりやすく、写生の難しさも感じました。

「風の中」の句は映像感がある一方で、花・風・一輪の組み合わせには既視感も残ります。

季語そのものに寄りすぎると類想的になり、逆に離れすぎると、その季語である必然性が薄れてしまいます。今回の推敲では、その間のどこに句の個性を置くかを考え続けました。

季語との距離感は、俳句を作るうえで難しく、同時に面白いところでもあると感じます。

初夏の俳句全体はこちらでまとめています。

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