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『文章読本』丸谷才一 複雑になった現実への対応【書評】

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この記事では、丸谷才一氏の『文章読本』について、その概要をご紹介します。

文章読本 丸谷才一・著

文章読本(丸谷才一, 中公文庫)の表紙
出典:Amazon

文章読本

著者:丸谷才一
出版社:中央公論新社
発売年月:単行本 1977年9月, 文庫本 1980年9月, 文庫本改版 1995年11月
ページ数:文庫本改版 395ページ
Cコード:C1195(中公文庫)

複雑になった現実への対応

丸谷才一氏(1925-2012)の『文章読本』は、昭和52年(1977)に中央公論社から刊行された。西南戦争終結が明治10年(1877)であるが、その100年後。

日本文においては、伝統的な日本語と欧文派との折り合いをつける技術が要求された。そして最も上手に行ったのは、小説家たちであり、彼らが一番の名文家となった。

文章は伝統によって学ぶものです。人は才能を云々したがるけれど、実のところ伝統の学び方の才能にほかならない。文章がいっこうに冴えないのは、学び取る態度を間違っているのかもしれません。学者のように名文とつきあうだけではいけない。名文からは文章の呼吸を学び、その型に従って書くことを心がけるべきでしょう。

語句や言いまわしならば、辞書によって知ることができる。名文には在来の言葉使いの最良のものが収められています。そして正しい文章の呼吸を教えてくれます。古今のおびただしい名文を読むことで、筆力が身に付いてゆくのです。

では名文とは何か。有名なのが自分にとっての名文とは限らない。読んで感心すれば名文と言える。ただし、広い範囲にわたって多読し、多様な名文を発見し親しむことが大切です。

名文と判断するための基準は何か。それは、言わんとすることが頭にすっきりとよくはいり、イメージがくっきりと浮かび、言葉の選び方が適切であると感じるような文章なのでしょう。

文章は型にのっとって書く。これは作文の基本です。先人に追随するだけでは、模倣にすぎないと思うかもしれない。しかし伝統がなければ、文化は存在しない。学習し模倣しても、おのずから出てくるものが個性となり、独創性をなす。

我々は普通、こみいったことを文章にする。わかりきったことを改めて文章にする必要はない。厄介な事柄を文章にするのだから、苦心もする。その際、名文から学んだ呼吸や型は大いに役立つ。

近代の文豪たちは、文語文の型を意識しながら、口語文を少しずつ作っていった。日常の話し言葉に引きずられるこがあれば、思い切りよく捨てることもあった。標準語の話し言葉を土台にし、文体の発明をした。

夏目漱石と芥川龍之介は東京の下町に生まれ育った。谷崎潤一郎の生家は東京日本橋。志賀直哉は東京山の手で育った。森鷗外は島根出身です。それらを知ると、文体の背景にある文豪の生い立ちを感じ取れる。

文章の最も基本的な機能は伝達です。文章には、個々の文が内容を伝達し、互いに辻褄が合っていることが要求されます。美辞をつらね歯切れがよくても、伝達と論理をかえりみない文章は、名文とは言えない。言いたいことを伝えることの方が大切なのです。

伝達は、人間の精神が普遍的なものであればこそ成り立つ。自分の思考の構造とリズムを尊重し、鮮明にしながら書く。それを読者がぴったり合うと感じれば、お互いに快い。明晰でない文章はいけない。

ただし、詩は曖昧性、言い換えると多義性を利用します。詩は、詩人と読者の合意の上で言葉を多義的に用いる。そして詩の言語は、感情を喚起する。美文については、普通の散文と詩の中間形態とみて差し支えない。

今日では、和漢混淆文が日本語の文章の常道となった。日本語は漢字に寄り添うように発達してきたため、書きやすく読みやすいのは和漢混淆文です。

普通、和漢混淆文というと、和文風と漢文訓読口調を混ぜ合わせたような文語体のことだが、この場合は漢字まじり仮名がきのこと。

江戸時代の擬古文は、漢語を極力しりぞけた。だが限界があった。

時代が複雑になるにつれて漢語の必要性は増した。普通名詞にしろ、観念語にしろ、大和ことばで造語しようとしても、長たらしくなり厄介だ。喚起性が弱く、鮮明度を欠く。文章の構造自体も締まりがなくなり、論理性の問題が生じる。

口語体が発明されてからも同様であった。この文体の埒外へ出ることは、もはや考えにくい。

海外に目を向けると、英語にはラテン語系の言葉が多い。なぜなら土着の言葉だけでは、ある程度高度な観念内容になると、すばやく伝達できないからだ。

文章の呼吸や型は、名文を読むなどして伝統から学べる。そして文章を書く際は、語彙の選択により個性を出す。だが主題により文章に使われる語彙の種類や用語の基準は変わる。文章一般を論ずるには、扱う事柄や社会的な状況を無視できない。

文章の秘訣には、語と語の関係も重要です。言葉の組み合わせの趣味がよく、気品が高ければ、優れた文章が出来上がる。逆に、組み合わせの趣味が悪いと、高尚で上品な言葉を使っていても、感心できない文章になってしまう。

文才とは、言葉の取り合わせの才能です。言葉の綾とは、数多くの語の関係を意識した、巧妙適切な配置ともいえます。絵の場合を考えると分かり易い。画家は、さまざまな色彩を巧妙適切に画面に置く。我々は、その関係の美しさに打たれるのであって、色彩だけに感心するのではない。

我々は、めいめい言語の歴史をまるごと引き受ける。そして言語を操る。ゆえに各人の心のなかにある一つひとつの語の歴史がものをいう。歴史が浅ければ、その浅さが文章に出てしまい、安っぽい代物が出来上がってしまう。

辞書で覚えただけの言葉を使ってはいけない。もっと馴染みの深い言葉を使うべきだ。いっそ生活のなかから言葉を探すほうが安全である。この初歩的だが根底にある文章論は、誰の場合でも当てはまる。筆者とのつき合いが深い語は、文中でしっかりと安定する。

この事は、単なる知識の問題ではない。熟語や成句の伝統が、書き手のなかで生きていることが重要なのだ。その伝統の感覚を身に付けていることこそ、言葉にかけての最高の教養といえる。

言葉はもともと歴史的な存在です。言葉を選ぶには、その語の由来から現代との関係に至るまでをしっかりと感じ取っていなければなりません。感じ取る幅が広ければ語義に詳しいのであり、感じ取る度合いが深ければ語感が鋭いのです。

そのため古風な言葉使いが得策であり安定します。既成の表現を組み合わせて新しい事柄を正確に記したり、あたたかいユーモアを楽しませたりできるのは、玄人の芸。

文章ではイメージが大事です。具体的なものを差し出されたほうが、抽象語や観念語、あるいは概括的な言い方よりも頭にはいりやすい。具体的に精細に書くと、文章の効果が高まります。イメージには、個々の事物を鮮明にし、前景や後景までも見せる力が備わっているのです。だから文章を書く以上は、有力な手段として忘れてはならない。

ただし、イメージは論理的でもなければ非論理的でもない。それを駆使して文章を仕立てるのだから、話の進め方に気を配らなければならない。

そこでイメージと論理の結合が必要になる。イメージはあくまで補助的な手段にすぎない。肝要なのは論理。イメージを文章にするときに難しくなるのは、論理とのかねあいの問題があるからだ。

またイメージには、名詞が大事だと思いがちだが、むしろ動詞の使い方が巧みでなければならない。動詞の扱い方は勘どころであり急所。

文豪の趣味のよい文体は称賛される。文体の核心部を占めるのは、私的なものではない。レトリック、すなわち言いまわしの型は、公的な文章を書くに当たって、効果的にするために生じた。レトリックは、大勢に訴える公的な姿勢から生じ、微妙に変奏されながら私的な文章へと広まった。

レトリックの基本は、大きく構えた、派手好みの、公的な表現です。渋く抑えた、内々の、私的な表現ではありません。レトリックには、比喩や擬人法などをはじめ、様々な技法があります。

現代小説では地味に抑えた文体が多い。けれども、優れてレトリカルな作品もたくさんあります。殊に、レトリックに優れた長篇小説をじっくりと読むと、学べることが多いはずです。

文章の構成に、緒論(序論)・本論・結論という三文法があります。しかし、情理を兼ね備えた名文のなかには、本論から始まる傑作もあります。

前置きのような緒論なら要らない。また、取ってつけたような終わりの挨拶になる結論も要らない。さらに本論が痩せ、話の要点をむやみにしぼったり、ものの見方や考え方が浅く狭くなったりして、厚みのない単純な論旨になることはもっと悪い。緒論・本論・結論という三文法では、本論において、対立する見方感じ方を欠いた意見になりがちだ。

文章は、判断や意見の中核部分があまり単純すぎてはいけない。現実の多様性や複雑さに応じることで、文章の質を維持できるのです。主題が独白的では文章の内容が薄くなる恐れがあります。文章の中身は対話的であることが望ましいのです。

文芸評論の書き方に、単一の主題にせずに、二つの主題をぶつけるという手法があります。これは、もっと広く文章一般の心得としても正しいことです。

起承転結では、転の要素を設ける以上、主題は必然的に単一ではなくなります。さらに、起と承の内部にも何かしらの用意が必要になり、前半の部分の複雑さも増します。

文章の構成では、緒論・本論・結論ではなく、起承転結を念頭に置くほうがよいかもしれません。緒論・本論・結論が当てはまらない名文が、起承転結という見方で読み直すとしっくりくることがあります。

ただし、是が非でも起承転結の型にはめなくてはならないということではありません。文章構成の普遍的な規則を立てるのではなく、優れた文章がどういう具合に組み立てられているのかを、具体的に検討することが大切です。構成力があるとは、結局は論理がしっかりしている事といえるでしょう。

文章の調子というものを、書き手により大きく異なると感じることは、頻繁にあります。これは文章を書くに当たって、型を決めるという筆者の選択が重大な影響を及ぼしています。影響が大きいのは、個人の生理や体質よりも、人間の思考という普遍的なものから生じる、筆者が選択した文章の型です。人間の思考という普遍的なものに合致するように言葉を連ねるからこそ、文章を理解してもらえるし、伝達が可能となります。

文章の伝統に触れ、名文に親しむことで、人間の思考および感受性と言葉の関係をしっかりと身に付けることができます。文章の調子がよいのは、筆者が思考のメカニズムを知っているからです。あるいは、筆者は自分の思考のリズムを文章の型によって丁寧に書くからです。

文章の論理に着目すると、日本語の現代文には語彙の問題があります。西洋の場合、思想の言語と生活の言語とが、なだらかに結びつき断絶がありません。よって西洋の哲学者は、同業者と専門的な問題を論じる時も、近所の子どもを相手にする時も、同じ語彙を使うことができます。

しかし日本語の場合、そうはいきません。ちょっと四角四面な漢語を使うと、生活感覚を欠いたり、現実から遊離したりすることがあります。カタカナ語は、もともと別の体系の語ですから、文章から浮いてしまうことがあります。我々は通常、現実的な生活の場でものを考えるので、論理性を失ってしまうのです。

対策として、自分に馴染みが深く、その文章の読者と想定される人々にもよく判る言葉を使います。また、ある程度、西欧の文章にも親しむと、日本語で文章を書く時も思考が生活から離れたものでなくなり、論理的な文章を書けるようになるかもしれません。

欧文直訳風の文章の欠点として、文章の終わりの音が揃うということがあります。欧文の原文では、動詞が文末にゆくことは稀です。翻訳においては、注意しなければ「だった」「あった」「行った」などとなりがちです。文語文には、過去の助動詞が多様であったのに、口語体は「た」一つしかありません。これは現代日本語で文章を書く際の大問題になりました。

「だ」「である」調でも、「です」「ます」調でも、文末の処理のために手が止まり、前後のセンテンスを含めての書き直しが必要になることがあります。文末の単調さは、文章全体を平板にしてしまいます。我々は、おそらくは世界に類のない不利な条件を強いられたのです。この件に関しても、先人の工夫は貴重な参考になります。参考になるのは、やはり現代小説でしょう。

特に「である」「である」と書きつづけることはやめたほうがよい。候文に似ているが伝統はなく、立派な文章を書いたつもりでいるような態度には害があります。望ましいのは、従属節や条件節で結ぶ手を試みることです。直線的な現代日本文には、多少の旋回と曲折があってもよいのです。体言止めや文語体、砕けた口語体の混用も、意外に効果があります。

現代日本で文章を書くことが難しいのは、文明の状況もかかわります。文章論は文明との関連が大問題です。明治時代に、当時の人々は日本古来のレトリック、つまり言いまわしの型や様式を嫌うようになりました。江戸時代の様式過剰にげんなりし、西洋の論理的な文章にすっかり感服したのです。

しかし実際は、西洋文明においても様式はとても重要でした。いずれにしても、使いづらいレトリックのような様式は嫌われ、厭味なもの、気障なものに受け止められました。

演説したり文章を書いたりする際は、好感をもって迎えられたいと願うものです。そのため近代日本の文章は、地味なものになりがちでした。

こうして雅文や漢文、和漢混交文のレトリックが少しずつ減りました。逆にうわべだけの西洋風のレトリックを少し取り入れました。そして、率直で簡素であるが、味も素気ない言葉使いがはびこるようになったのです。

これは、美辞麗句、無意味な装飾の多かった文章からの急激な移り変わりでした。時代は変化するものですが、参考になる日本の古典は多かったはずです。伝統性と趣味性で成り立つ古典は、文章にとって極めて重要です。

古典は過去からの遺産であり、選び抜かれたものです。現在の言葉だけで語ろうとすると、書こうとする世界は浅くなり衰えてしまうでしょう。ものを語り、ものを書く際は、型なしで行うことは不可能です。

文学者は、膨大な努力を続けながら、伝統的な表現をほんの少し改め、新しい表現に成功します。言語生活は型の借用です。伝統を失えば、粗悪な型で我慢することになってしまいます。新聞記事の常套句は、ありふれた粗悪な型であることが多いのです。

文章と文明は互いに影響し合います。文章は人間の精神の最も基本的な表現です。口語文を成熟させることは、文明に作用し、生き方を豊かなものに改めてくれます。

我々は過去から学び取る際に、自分自身を経過させ、文明全体、社会全体の力も借り、新しい文章の型を自分の力で作るしかないのです。現実はいっそう複雑になりましたが、立ち向かえるものを創造し、口語文の完成のために努力しなければなりません。

そして最後には、どのように新しい文章の型を探り、何について書くかという難問が残ります。書くべきことがあるとき、言葉は力強く流れるでしょう。

文章読本(丸谷才一, 中公文庫)の表紙
出典:Amazon
書誌情報

書名:文章読本
著者:丸谷才一
出版社:中央公論新社
発売年月:単行本 1977年9月, 文庫本 1980年9月, 文庫本改版 1995年11月
ページ数:文庫本改版 395ページ
Cコード:C1195(中公文庫)

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